2011年3月11日に起こった東日本大震災から7年が経過した。この7年間に限っても、2014年の広島県での土砂災害、長野県と岐阜県にまたがる御嶽山の噴火、2016年の熊本地震、2017年の九州北部豪雨など、多くの災害に見舞われてきた。つい最近も、群馬県の草津で本白根山の噴火があったばかりだ。いつどこで発生するかわからない自然災害ーー。実際に遭遇したとき、私たちはどうすればいいのか。そもそも災害を“他人事”としていないだろうか?

そんななか、「防災があたりまえの世の中をつくる」という理念のもと、これまでに女性向けの防災グッズブランド立ち上げ、位置情報を活用した次世代版避難訓練の開発・展開、津波防災の新しいサインの制定と啓発など、防災を身近にするさまざまなプロジェクトを手がけているのが、田中美咲さんが代表理事を務める一般社団法人「防災ガール」だ。

2017年3月11日には、設立当初から打ち出してきた「防災をもっとオシャレでわかりやすく」というコンセプトを大幅に変更し「防災をこれまでにないフェーズへ」とした。防災ガールはこれからの防災をどのように捉えているのか? さらに彼女たちの新たなビジョンとは何か? 田中さんに話を聞いた。

会社を辞めて福島県で復興事業を

——田中さんは、ご自身を「東日本大震災なしに物事が考えられない世代」とお話しされていますね。

田中 内定式を控え、大学のある京都から横浜の実家に戻り、地元の駅のカフェにいたときに東日本大震災が発生しました。今までに経験したことのない大きな揺れが長く続き、カフェのお客さんたちが悲鳴をあげ、駅の周りにいた人たちが、一斉に走り出していました。まるで映画のワンシーンのようでした。

その後、SNSで津波が起きたことや被害の大きさを知り、当初はただ驚くばかりでしたが、徐々に「何か自分にできることをしなければ」と考えるようになりました。実際にSNSでも同様の声があがり始めていて、重要な情報がシェアされ、みんながそれぞれにできることをやろうといった雰囲気になっていました。私はSkypeで大学時代の仲間たち30人程度のグループを作って朝から晩まで「自分達は何をすべきか」を話し合いました。その内容は、被災地でのボランティアや震災に関する情報を整理してSNSで発信すること、そして自分たちがこれを経て未来に繋げていかなければならないということです。このプロセスが後に非営利団体の立ち上げにもつながっています。

——震災の翌月には、新社会人としての生活が始まりました。

田中 サイバーエージェントに入社して、すぐに多忙な日々が訪れました。その間、震災復興のために私たちがやるべきことがあるのではないかと会社に提案しましたが、あまり聞いてもらえませんでした。それは当たり前で、その当時の私は何の成果も出していない、入社数ヶ月の新入社員です。それで、まずは会社で給料の5倍ぐらいの成果を残すとともに、自分のスキルを向上させようと考えました。

サイバーエージェントは新入社員にも大きな裁量権を任せてくれる会社でした。私はソーシャルゲームの部署に配属され、ゲームプロデューサーとして短い期間で多くのことを学ばせてもらいました。失敗をたくさんさせてもらった分、成果も出やすくなり、新人賞や管轄MVPを獲得するなど当初の目標を達成して、2年目の7月末で会社を退職しました。

——その後、クリエイティブディレクターの佐藤尚之さんやdreamdesignの石川淳哉さん率いる公益社団法人(現在は一般社団法人)「助けあいジャパン」に参加されましたね。

田中 大学在学中に、石川さんが非常勤講師、佐藤さんがゲスト講師として教壇に立っていた「クリエイティブの可能性」という授業を受けていて、それが私の考え方の基盤になっています。石川さんから、「東北に足を運んで動いた方が、自分らしく生きられるんじゃない?」とアドバイスをいただき、福島に引っ越して、「助けあいジャパン」の福島県の事業責任者として仕事を始めました。

私の仕事は、県庁、沿岸部の被災された9市町村、広告代理店、地元新聞社と協力しながら県外へと避難を余儀なくされた被災された方向けに情報発信するというもの。関わる人が多かったこともあり、それぞれの立場ごとにやりたいことも、発信したい情報の中身も違うので、それらを調整するのが大変でした。ただ常に被災された方のために活動をしたい、どんなに辛くてもそのために会社をやめて引っ越した自分の初心を忘れないように、と思っていました。

——具体的に、どのように調整して仕事を進めたのですか。

田中 それぞれの主張はもちろん理解できますが、「被災された方々を支援するというのが、最も重要なことですよね」と、何度も説明し続けました。当初は「25歳の若者が何を言っているんだ」と思われることも多かったと思います。

そんな時には、みなさんとお酒を酌み交わしたり、私のことを理解してくれている方を通じて、地元の方々に私の考えを間接的に伝えてもらうなど、伝え方、伝える場面にも工夫をしながら、仕事を進めました。

お金にならなくても、他者に貢献できる事業を

——「助けあいジャパン」を経て、2013年3月11日に「防災ガール」を立ち上げました。このときはどのような心境でしたか?

田中 これまでに発生した災害で、多くの人々がかけがえのない命を落としてきました。悲しみを繰り返さないために、「防災」や「減災」に力を入れなければいけない。でも、それらをなかなかあたりまえのこととして自分ゴト化できない理由を分析すると、わかりづらいだけでなく、なんだかダサいし面倒くさい、という印象を抱く人が少なくないのではないかと考えたのです。それなら、私たちが思わず“やりたくなるような防災”を生み出そうと考え、「防災ガール」を立ち上げました。

当初は、ワークショップの企画・運営やSNSでの防災情報の発信など、学生団体でもできるような簡単なことを中心に行なっていましたが、それらを通して小さな成果は生まれたとしても、「社会を動かす」ことにはなりませんでした。

「防災があたりまえの世の中をつくる」というビジョンを達成するためには、若者が集合体として「一生懸命やる」というラインを超え、社会的なインパクトを生み出さなければならならない。その頃に知人に紹介してもらったのが、社会起業家育成プログラム「SUSANOO」でした。

——SUSANOOについて教えてください。

田中 SUSANOOは、スタートアップを支援するMistletoe株式会社の代表取締役兼CEOの孫泰蔵さんとNPO法人ETIC.代表理事の宮城治男さんが創設した、社会起業家の育成プログラムです。

単に社会課題を解決しようというだけではなく、スタートアップとして事業成長を目指そうとするのが他のプログラムと大きく違う点でした。ビジネスとして社会に与えられるインパクトも重視するので、事業の売上規模も数千万円ではなく数億円単位でシミュレーションしました。そして、何より徹底的に考えたのは、それをやることで誰が涙を流すほど喜ぶのか、です。

またSUSANOOには、既存の企業が「ビジネスになりにくい」と考える市場の失敗分野に果敢に挑戦する気概を持った社会起業家が集まっています。そのようなニッチな分野を扱おうとすると、「おカネにならないからやめた方がいい」などと言われがちです。でも、誰かの幸せに貢献したいという想いで挑戦しているので、プロジェクトに参加したメンバーとは互いに支え合うことができました。

——支え合い、切磋琢磨することで、ビジネスになりにくいと言われている分野をビジネスに結びつけていったのですね。

田中 プロジェクトの終了時、私はゲーミフィケーションを取り入れた避難訓練プログラムを提案しました。今振り返ると下手なプレゼンでしたが(笑)、その場で8社がスポンサーについてくれたんです。

拡張現実・位置情報ゲームを手がけていた、あるIT企業の社内スタートアップに位置情報データを提供いただき、位置情報と方角だけで避難場所を自分で探し出すという、ゲームによる次世代版避難訓練「LUDUSOS」(※)をリリースしました。このゲームは、形骸化して中身も意味もわからないまま続けられている避難訓練に課題を感じる企業、行政、教育現場から大変多くの問い合わせがありました。

※現在、「LUDUSOS」の提供は終了。

すべてのものに防災をインストールする 

——「防災ガール」は17年3月11日にミッションを「防災をこれまでにないフェーズへ」に変更しました。その経緯を教えてください。 

田中 私たちは防災のネガティブイメージを解消するために活動を始めましたが、当初は「防災をもっとオシャレに」と言ってもなかなか理解されず、ネットの掲示板などには「命に関わることなのに、オシャレなんてふざけるな!」など辛辣な言葉を書き込まれることもありました。

それでも、2年前に東京都が防災ブック『東京防災』を発行したころから、防災に関わるアイテムにデザイン性を取り入れることへの認知が広まり、それならば私たちは次のフェーズに足を進めなければならないと考えたのです。 

しかし、デザイン性が加わっても防災はまだまだ“非日常”で、私たちの生活に落とし込みづらいという現実は今も変わりません。だからこそ、従来の防災である非常食や避難訓練と行った枠組みではなく、すべてのものに防災をインストールし日常化することを目標に、防災の再定義を始めようとしています。 

例えば、机の構造。机の下部分にジェル状の素材を付ければ、地震が起こった時に万一机が破損しても、下に隠れていてケガをしにくくできる。また、蛍光灯の色を薄く覆うカバーのようなものがあれば、破片が落ちてくる可能性を軽減できる。ほんの少し視点を変えるだけで、防災はもっと身近になると考えています。

——まさに今、変化の途中なのですね。外国では防災の捉え方は違うのですか?

田中 シリコンバレーやニューヨークでは「リスクマネジメントしていないことは、クールではない」とみなされます。つまり、近い将来起こるかもしれない災害への備えがないとは何事だという雰囲気です。日本もそんな空気感が広がりつつありますが、まだまだ防災に無関心な人が多い。また、口は出してもアクションを起こさない人が多いと感じています。

東南アジアの防災に関わるスタートアップや団体のリーダーと話すと、同世代ということもあってかとても議論が熱く盛り上がります。「自分たちが防災で世界を変えるんだ!」と、スタートアップ特有の熱量はどの国も同じです。日本の防災は少し旧態依然としたところがありますので、業界のプレーヤー含め、一般のすべての方々の意識改革も必要ではないかと感じています。

——田中さんのアクションの原動力はなんでしょうか。

田中 そうですね……。私の場合は、何をしても必ず守ってくれた家族の存在が大きいと思います。実は、小学校低学年のころにひどいいじめに遭ったんですが、両親は「30年後にネタになるよ」と言ってくれた。こういった発想の転換は、関西人だからでしょうか(笑)。でも、そうすることで傷ついていた私を励まし、守ってくれたんです。その後も、信頼できる仲間に恵まれてきました。今は、「防災ガール」のメンバーが助けになってくれます。だから、私はチャレンジし続けられるのだと思います。

生き抜く力を、強くしたい

 ——田中さんは昨年夏から滋賀県長浜市に移住して、新しい挑戦を始めていますね。

田中 スタートアップへの理解のある長浜市役所の方からお声がけいただき、「どんなチャレンジをしてもサポートする」と宣言していただいたので、昨年7月に移住、同市と連携して「生き抜く知恵の実験室 “WEEL(ウィール)”」というプロジェクトを始動しました。これは、古来の日本の文化・暮らし・伝統から現代にも活かせる暮らしの中の生き抜く力、そして、防災のあり方を見つけ出すというもので、私たちの移住もこの一環で行いました。

東京では災害に備えていても、備えのある家や職場以外の場所で被災する確率が高い。そこで、災害が発生した時に自分を守れる確率が高い地域に引っ越すのはどうかと考えました。リサーチすると、長浜市は地形的に津波に襲われにくく、活断層が少なく、原発からも30キロ以上離れている。雪害は少しあるが、火山もないという場所です。ある意味、「引っ越す」という防災を選択したと言えます。

長浜市ではお金ではなく等価交換によるビジネスを行っていて、私たちは仕事をする代わりに、家屋と車を提供してもらい、農家の方からは新鮮な野菜をいただいたりしています。地方での暮らしが、今後提供する新たな防災のヒントになるよう視野を広げたいですね。

——プロジェクト名に「生き抜く」という言葉がありますが、「生き抜く」という力が、いまの私たちには足りなくなっているのでしょうか?

田中 そのように感じています。特に、都市部は一晩雪が降るだけで生活に支障をきたします。そうしたインフラの側面だけでなく、純粋に“生きること”そのものへの関心が薄い人も少なくないような気がするのです。

 組織運営に関してもそうですが、私は「防災ガール」のメンバーに、細かな指示や答えは出しません。目標も自分で設定してもらい、失敗しても基本的にはそのままにします。ただ、「どうしてそうなったと思う?」とだけ私が問いかけるのには、自分で考える姿勢を身につけてほしいという想いがあるからです。 

現在の日本のように、生まれたときから周囲にモノや情報があふれていると、人は1つひとつの物事に対して深く思考する力を失いかねない。そうした所に、災害をはじめ想定外の出来事が起こると対応の仕方がわからず、いとも簡単に諦めてしまう。そうならないためには、「生へのこだわり」を持ち、決して思考停止せず、疑問を持ち続けること。そして決断する力をつけることが、結果として、「生き抜く力」につながるのではないでしょうか。

もちろん、そうした状況に違和感を感じ始めている人もいるとは思いますが、どんなにヘタクソでも生きた方がいい。その原因が災害であれなんであれ、自分が死ぬことは自分が思っているよりずっと、周囲の人々に大きな影響があるからです。

——「防災ガール」にも多くの若い方が参加していますね。

田中 現在、参加してくれているボランティアは約140人です。彼らは考え方に柔軟性があるから、吸収率が高く、変化のスピードも速い。一緒に活動がしやすいし、新しい情報をどんどん提供してくれます。全国にいる20代、30代の仲間が、それぞれの地元で流行っていることを教えてくれ、それが都市部の問題解決に役立つこともあります。

ボランティアは公務員、ITスタートアップ、大企業の人事などバックグラウンドもさまざまで、「震災当時は何もできなかったから今何かできないか」、「被災地に出向く時間は取れないが、仕事をしながら貢献できないか」などという動機で集まってくれました。最近、参加してくれた16歳の子は、中学生のときからお父さんと被災地でのボランティアに参加し、現場を直に見て、「今の世の中がヤバい」と10代ながらに感じ、自分で社会を変えなければと思ったそうです。

——若い芽が育っているのですね。起業したいという人には、どんなアドバイスをしますか?

田中 社会や物事に対峙すると、時に既存のルールを壊していかなければならない瞬間があります。体力と精神力を必要とし、いろいろなものを犠牲にすることもある。それでも、変化したあとの社会を想像し、必ずたくさんの人が幸せになると信じて、行動し続けることが大事だと信じています。

自分のビジョンを発信し続けると、賛同してくれる仲間が増えます。仲間がいるからこそ、中途半端に諦めてはいけない。諦めなければ共感の輪が広がり、それは社会の変化につながる一番のきっかけになります。私には仲間がいる以上、アクションを起こさないという選択肢は、もうありません。今後も防災ガールとして、新たな防災を社会に投げかけていきたいですね。

TEXT:桑原利佳(POWER NEWS)

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田中美咲(たなか・みさき)

一般社団法人「防災ガール」代表理事。1988年、奈良県で生まれ横浜で育つ。立命館大学産業社会学部卒業後、株式会社サイバーエージェントに入社。東日本大震災をきっかけに、ソーシャルゲームのプロデューサーとして活躍したあと、一般社団法人「助けあいジャパン」に転職し、福島県の事業責任者として復興支援事業に携わる。2013年3月11日に「防災ガール」を立ち上げ、「防災があたりまえの世の中をつくる」ためにさまざまなプロジェクトを展開中。