650年の歴史を持つ「能」から、過去、現在、未来の「心」を探る

能との出合いは偶然だった。24歳の高校教師は、初めて観劇した能『松風』の舞台に、水面に浮かぶ月を幻視したという。「人生なにが起こるかわかりません」。能の世界へ足を踏み入れることを決め、いまから37年前に下掛宝生流(しもがかりほうしょうりゅう)の鏑木岑男(かぶらきみねお)の門を叩いた。

現在、能楽師のワキ方として日々舞台に立つ安田登さんは、能の世界にとどまらず漢字やくさび形文字(シュメール語)などの古代文字、さらにはテクノロジーにも深い知見を持ち、八面六臂の活躍を見せている。ただ、一貫してこだわり続けてきたのは、「心」についてだ。文字の誕生という「知能のパラダイムシフト」によって生まれた「心」、その先に続いてきた「心の時代」は、現在終焉に近づいていると安田さんは説く。

そのような状況にあって、私たちが能から受け取れるメッセージはあるのだろうか。さらには、AI時代の到来により、私たちはどのような新たな「心」を得るのだろうか。

あの世とこの世を分ける「ワキ」方の役割

ーーはじめに安田様の専門である能について、簡単に解説いただけますか?

安田 能は、室町時代に観阿弥、世阿弥父子によって大成された芸能です。以来、およそ650年にわたり、一度の断絶もなく上演され続けてきました。能は大きく、この世に生きている人のみが登場する「現在能」と、世阿弥が確立した「夢幻能」とに二分できます。

能の真髄は、やはり後者の夢幻能に込められています。夢幻能は、旅の僧などの「ワキ」方と主人公である謎の人物「シテ」方から構成されており、シテ方は多くの場合、幽霊、神、精霊など、霊的な存在として登場します。つまり、能のワキ方とは、脇役の「脇」という位置付けではなく、あの世とこの世を「分く=境界」存在なのです。霊的な存在が主人公となる演劇様式は世界的に見ても非常に珍しいものです。

安田 登氏

自身が寺子屋を開催する東京・広尾の東江寺で取材に応じてくれた能楽師の安田 登氏

ーーなぜそのような様式が生まれたのですか?

安田 シテとしては、例えば源義経など非業の死を遂げた、敗者の立場の幽霊が多く取り上げられる一方、ワキ方は諸国をさすらう旅の僧という設定です。旅の途上で出会う幽霊たちの無念の声に耳を傾け、成仏させるのがワキ方の役割です。大衆に愛された歌舞伎に比べ、能は武士階級のたしなみとして好まれた芸能です。おそらく、勝者となった側の立場から、敗者の魂を慰めるという意味合いがあったのではないでしょうか。

また、能には神さまに奉じるために演じるという儀礼的な側面もあります。そのため、舞台上で神の化身となる演者は、観客に自ら働きかけるようなことはありません。能を始めたころに、観客席の中に眠っているお客様を見つけていつも不思議に思っていました。眠ってしまうほど退屈な能を観に、なぜわざわざ足を運ぶのだろうと……(笑)。

ーーそれでも観客を惹きつける魅力はなんなのでしょう?

安田 あくまで推論ですが、お客様は能を観始めると、舞台の上で行われていることではなく、自分のことを考えるようになります。それはあたかも能の舞台を前にして「自分の過去」に回帰しているように思えてきたのです。能舞台は、死者がこの世で果たせなかった思いを晴らしにくる場所として機能します。同席するお客様も、ワキ方としてその思いを受け止めているうちに、過去に葬った自分の姿も作中の死者と同様によみがえるのではないかと。そして、それがピークに達したときについ眠りに落ちてしまう(笑)。

人は成長する過程で、さまざまな痛みに出合い、なんとかそれを乗り越えて現在の自分を形づくるものです。誰もがたくさんの痛みを経験してきたわけですが、まだ消化できていない痛みには、ある意味フタをしながら生きている。自分の中に残っていたそういう思いが、能の舞台を観るのと並行して、無意識のうちに解放され昇華されるのではないかと想像しました。

安田 登氏

能は妄想力「脳内AR」を発動させる

ーー能の舞台は正面の鏡板に老松が描かれただけのシンプルな作りで、観客が各々のイメージを投影しやすいように思われます。

安田 たしかに能の舞台は、「目に見えないものを見る」装置として最適です。人それぞれに、山にかかる月が見えたり波の音が聞こえたりと、観る側が自由に映像や音を重ねることができます。私はこの「見えないものを見る力」、妄想力のようなものを「脳内AR(拡張現実)」と呼んでいます。

また、日本人は本来、余白を愛する美意識、枯山水や茶道など見立てを尊ぶ気質から、脳内ARを発動させやすい民族ではないかと考えています。芸術以外でも、例えばそろばんの暗算などはその最たる例だと思います。空中で見えない玉をはじくわけですから、まさに「エアそろばん」です(笑)。

安田 登氏

ーー安田様のおっしゃる脳内ARは、想像力とは違うものですか?

安田 少し違います。自分で何かを思い浮かべる想像力は能動的ですが、脳内ARは見ようと思わなくても自然に見えてくるような、または自分のなかにすでに眠っているものが覚醒するイメージです。

東京・文京区の「六義園」にある小さな石柱には、和歌の一節が刻まれています。万葉集、古今和歌集で詠まれた名所・旧跡の地名が、秘密のコードのように石柱に記されています。そのコードをたよりに、和歌の素養を持った昔の武士たちは、六義園と名所・旧跡のイメージを脳内で重ね合わせながら庭園を巡り歩いていました。

例えば、ある石柱に「かたをなみ」という文字が刻まれていた場合、武士の脳裏には「和歌の浦に 潮満ち来れば 潟をなみ 葦辺をさして 鶴鳴き渡る(わかのうらに しほみちくれば かたをなみ あしへをさして たづなきわたる)」という山部赤人(やまべのあかひと)の歌の情景が、イメージとして沸き起こってきます。そして、それがいま目の前にある六義園の景色に重なる。それが脳内ARです。

ーー一般的なARと能も、親和性が高いということでしょうか。

安田 私は六義園を、武士にとって脳内ARを発動させるためのある種のテーマパークだったと捉えています。現代風に言えば、ARやMR(複合現実)などのテクノロジーを楽しめるアミューズメント施設といったところでしょうか。

ARと能の関連性については、多くのAR関連の技術開発者が注目しています。実際に開発者の方々と、能をもとにしたVR(仮想現実)映像製作の企画や、ヘッドマウントディスプレイを使った能の鑑賞ツールなどの研究も始まっています。でも、これではあまり面白くない。観客1人ひとりに脳内ARを発動させ、各々に異なるイメージを喚起させられるような、そんなARツールを作れれば面白いですね。

安田 登氏

「心」は、文字の誕生によって生まれた

ーー能の形式を用いて、世界最古の神話『イナンナの冥界下り』の上演にも取り組まれていると伺いました。

安田『イナンナの冥界下り』は、紀元前2000年頃に書かれたメソポタミア神話で、シュメール語というくさび形文字によって記されていました。イナンナとは天と地を統治している古代の女神で、後のさまざまな神話に登場するアフロディーテやヴィーナスなどにも通ずる女神の源とされています。簡単にあらすじを要約すると、天を捨て、地を捨て冥界に下ったイナンナが、冥界における三日三晩の死を経て、再びよみがえる話です。

この神話に興味を持ったのは、今から10年ほど前、『言語(大修館書店)』という雑誌に『神話する身体』というタイトルの連載記事を書いており、参考にするためさまざまな文献を読み込むなかで、古事記に出てくる「死ぬ」という言葉の記述にある疑問を持ったのがきっかけです。

古代における「死ぬ」という言葉と、現在私たちが日常的に使っている「死ぬ」という言葉の意味は、もしかしたら同じではなかったのではないかーー古代の日本人は「死」を永続的なものではなく、一時的なものとして捉えていたのではないだろうかと考えたのです。

安田 登氏

慣れた手つきでタブレットを使い、『古事記』の「しぬ」と「死」の違いを説明する安田氏

そこから古代の死生観に興味を持ち、ここ数年は、『古事記』『ギリシア神話』などの『冥界下り』シリーズを上演してきました。そして、さらに古い時代のシュメール神話『イナンナの冥界下り』にまでたどりついたのです。

ーー古代文字の研究家でもある安田さんは「心」という文字にも着目してこられましたね。

安田 学生時代に学んでいたのが甲骨・金文などの古代文字で、教員をしていた20代に、漢和辞典の執筆に携わりました。漢字は紀元前1300年ごろに生まれたとされていて、当初は約5,000文字が使われていたようなのですが、その中にまだ「心」という文字は含まれていなかった。「心」という文字が金文としてはじめて登場するのは、それから300年ぐらい後、紀元前1000年ごろのことです。

なぜ、私が「心」という漢字に執心していたかというと、高校生の頃からずっと、人はどうして心を持ってしまったのか、心はいつ生まれたのかについて考え続けてきたからです。私の想像では、人間は文字が生まれたことにより、それまで説明できなかった“もやもやしていたもの”を整理整頓できるようになった。つまり、思考や感情を言語化する手段を得たのだと思います。それによる最も大きな変化は、「時間」の概念を獲得したことでしょう。それまで陽が昇り沈む、という一日の変化は感じていても、過去、現在、未来という人の一生に則した時間の捉え方はしていなかったでしょうから。

文字を使えば、脳内に発生した考えや記憶をアウトプットできます。アウトプットすることで、脳の中にはまたスペースが生まれ、新たな創造・思考活動を行える。文字の誕生は、人類にとって「知能のパラダイムシフト」とでもいうべき出来事でした。

また、文字に影響されたのは知能だけではありません。人々は胸の中に渦巻いていたあらゆる感情を総括し、「心」として認識するようになっていきます。そのうちに「心」という文字が生まれ、人々は心とともに生き始めました。

しかし、さまざまな感情にラベルを貼る作業の中で、人々は未来への「希望」「楽しさ」「喜び」「愛」などと同時に、将来への「不安」、過去への「後悔」なども獲得しました。そうした負の感情を、「心」が生まれることによって生じた副作用と私は呼んでいます。心という文字が生まれなければ、それを部首とする「悲」「悩」「恨」などの感情を表す漢字も生まれなかったわけですから。この持論は、あくまで漢字に限定した話ですが……。

ーー大変興味深いです。つまり、“知能のパラダイムシフト”が「心」を誕生させたということでしょうか?

安田 そのとおりです。ただ、その「心」をうまく使いこなせず、持て余し始めた人も少なからずいたはずです。心の誕生後、約500年を経て孔子が現れます。孔子の遺した『論語』とは、人々に心の使い方を指南した処方箋だったように思えるのです。

「死」を「暗いもの」「恐れるべきもの」として見るようになったのも、やはり心の誕生後だと思われます。私が古代人の死生観に惹かれるのは、言語的、論理的な価値観を持たない時代の死への向き合い方に、屈託のなさを感じるからです。シュメール神話の『イナンナの冥界下り』をシュメール語で上演しながら、まだ心が明確な形になっていない時代の古代の人々の「生」と「死」について探っています。はるか昔に起こった出来事を追体験することが、未来を読み解くヒントになる。まだ答えはなにも出ていませんが、探し続ける姿勢が大切な気がしています。

「イナンナの冥界下り」で使用された人形

今年、イギリスやリトアニアで上演された「イナンナの冥界下り」で使用された人形。背後で安田氏自ら人形を操っている。

三次元的思考方法から生まれる新たな「ポスト心」とは

ーー「心」という文字を得た後、長きにわたって続いてきた心の時代が、今、終焉に向かっていると考えるのはどうしてですか?

安田 不安や後悔、悩みなど、心が生まれたことによってもたらされた副作用が肥大化しすぎ、バランスが崩れつつあると感じているからです。そういう思いを悶々と抱えていた頃、カーツワイル博士の「シンギュラリティ」という考え方に出合いました。

カーツワイル博士は、遺伝子学とテクノロジーが高度に進化することで、人間が不老不死を手に入れる可能性も説いています。それは極端な仮説だとしても、人間の寿命がこの先確実に延びるとなると、はるか昔、文字の誕生で獲得した時間の概念が変わります。時間の概念が変われば、前時代的な心の尺度では測りきれない、新たな価値観が生まれるはずです。

安田 登氏

ーー文字の誕生になぞらえると、時間の概念だけではなく人々の思考方法も変わるとお考えですか?

安田 そうです。文字というものは、三次元のものを二次元に微分して記号化したものです。この微分によって、時間を直線上に配置することができるようになりましたが、しかし同時に、私たちは二次元的な思考方法にすっかり慣れ切っています。私は物を書く際、ひとつの言葉を選ぶのにとても悩みます。ひとつの言葉だけでは表せない思いがあるけれど、それでもひとつの言葉を選択せざるを得ない。その時は曖昧模糊とした感情、言葉にならない思いも同時に切り捨てるしかないのです。

文章を書く行為は、言葉という制約を持って、さまざまな思いを二次元の平面に閉じ込める作業です。私がイナンナを能の技法で演じるのは、そうした言語化や、数値化、論理化などの二次元的枠組みの思考方法から逃れ、文字で読んだだけではつかめない何かを身体的なアプローチによって模索したいからです。

一方、テクノロジーが発達すれば、思考方法が二次元的なものから三次元的なものに移行すると予想できます。例えばARメガネでは、視る側が三次元図形を各々違う方向から捉えられるところが大変面白いように。人がARやAIと共存する社会が誕生すれば、私たちの思考方法はおのずと立体化、複雑化します。三次元で見ることや考えることがデフォルトになる可能性があります。

ーー今後、私たちの思考や心はどのように変化するのでしょうか?

安田 人とテクノロジーが高次元で共存する社会に移行し、先述したような三次元的ものの見方や考え方が出てくれば、脳内ARも含め、潜在的に眠っていた人間の能力が再び覚醒するかもしれません。また、言葉、映像、音楽など既存のメディアではない、身体的かつ三次元的な感覚で思いを共有できるような、新たなコミュニケーションツールも生まれるかもしれません。

そうなると、私たちがなじんできた心とはまったく異なるもの、心のあとにつづく存在である「ポスト心」が出現する可能性があります。それが具体的になんなのか、今の時点では申し上げられませんが……。

安田 登氏

ーー「ポスト心」の出現を前に、今、私たちが能から享受できるものはありますか?

安田 古典芸能でありながら、能の舞台上には、すでに空間と時間の制約から解放された不思議な世界観が構築されています。ワキ方の現在から未来へ向かう人間的な時間と、シテ方の過去から現在へ逆流してくる非現実的な時間。相反するふたつの時間が同時に存在しているのです。能の特殊な構造は、二次元的な言葉や論理では説明できない、多重的なものの見方、感じ方を提示してくれています。

一方で、能は人間の痛みに一途に向き合ってきた芸能でもあります。前期的な心の時代が終焉し、「ポスト心」の時代が始まるにあたって、私がいま、大切にすべきキーワードとしてあげているのが“痛み”です。これは情報学研究者のドミニク・チェン氏も指摘されていることなのですが、資本主義的近代社会において、合理的なルールに則り切り捨てられてきたさまざまな痛みが、現在、心の副作用として肥大化してしまっています。これ以上、副作用を増幅させないためにも、新たな時代には、もっと痛みに敏感にならなければなりません。

長きにわたりシテ方の無念に耳を傾けてきた能は、そうした痛みを含め人間の中に眠っている潜在的な思いや能力を解き放させる力を持っています。能の舞台には、より良い「ポスト心」を生み出すための、多くの暗示が散りばめられているのです。

 

TEXT:岸上雅由子

安田 登(やすだ・のぼる)
能楽師

1956年生まれ。能楽師(ワキ方・下掛宝生流)。東京を中心に舞台を勤めるほか、海外公演も行う(本年はシュメール語による作品『イナンナの冥界下り』で、イギリス・リトアニア公演を行った)。また能のメソッドを使った作品の創作、出演も行う(昨年は金沢の21世紀美術館の依頼により泉鏡花の『天守物語』を上演し、今年度は同作品を島根県でも上演の予定)。『論語』を学ぶ寺子屋「遊学塾」を主宰し、全国で出張寺子屋を行う。

著書
『身体感覚で「論語」を読みなおす。』(新潮文庫)
『変調「日本の古典」講義 身体で読む伝統・教養・知性』(内田 樹氏と共著、祥伝社)
『能〜650年続いた仕掛けとは』(新潮新書)
『あわいの時代の論語』(春秋社)
『異界を旅する能』(ちくま文庫)
『あわいの力』(ミシマ社)
『イナンナの冥界下り』(ミシマ社)
『日本人の身体』(ちくま新書)
『身体感覚で芭蕉を読みなおす。』(春秋社)
など多数。