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林業で食べていく!木材の未来を切り出す東京チェンソーズ

東京都多摩地域西部に位置する東京都檜原村。面積の93%を林野が占めるこの村を拠点に、新たな林業に取り組んでいる会社がある。従業員19人、平均年齢34歳の東京チェンソーズだ。木の可能性を追求し、従来は廃材として捨てられていた部位に価値を見いだす。「消費者自らが机を作る」「30年かけて苗木から育てる」といった“木を通じた体験”を商品化する。こうしたさまざまな取り組みを通して「稼げる林業」を目指す同社は、補助金頼みの公共事業と揶揄されてきた日本の林業に風穴を開ける存在だ。

同社が企業理念として掲げるのは「東京の木の下で、地球の幸せのために、山のいまを伝え、美しい森林を育み、活かし、届ける」こと。代表の青木亮輔さんの話からは、これからの林業のあり方だけでなく、地域との共生や持続可能な開発など、今、世界中で取り組んでいる社会課題へのヒントが見えてくる。「地球の幸せのため」という理念も決して大げさではない。

日本の林業には可能性がある。むしろまだ何も始まっていない

——まずは日本の林業の現状と可能性について、どのように考えているかお教え下さい。

青木 可能性は大いにあると思います。むしろ、まだ何も手がつけられていないといってもいいかもしれない。ここ数十年、日本の林業は「維持する」ことが中心でした。林業の歩みを少しお話しすると、日本では戦前、戦中と木材の需要が高く、一時は全国が禿山だらけになってしまうと思えるくらい伐採されました。戦後、各地で植樹が行われましたが、木はすぐに育つものではありません。そのため、高度成長真只中だった日本は輸入木材に頼るようになり、この間に林業の担い手は減り、国内産木材の値段も下落しました。

一方、木は植えたら後は放ったらかしでいいというわけではありません。適当に間引かないと1本1本がきちんと根を張らず、光を求めて上に伸びていくだけの弱い木になってしまいます。また、森林は国土の保全や水源のかん養機能の役割を担っています。戦後、荒廃した山で災害や水害が頻発したのはそのためで、災害防止の観点から公益性が高い森林整備には国から補助金が出るようになりました。こうした諸々の事情によって日本の林業は、植樹、下草刈り、間伐など「山の手入れ」をする公共事業的な仕事を主とした補助金頼みの産業になったのです。

つまり、植樹からの60年は木を「育てる時代」だったともいえます。そして、ようやく伐採ができる状態になった今、いかに人材を確保し育てるかが大事になっています。

——青木さんが、「緊急雇用対策事業」によって東京都檜原村森林組合に臨時採用され、檜原村で働き始めたのは2001年ですね。それから約20年、環境に変化は感じていますか。

青木 変わりましたね。僕は、林野庁の「緑の雇用」事業(林業労働力確保のために、研修生らの給料の一部や研修費用を国が負担して森林組合や林業経営体を支援する)の第1期生でもあるんです。この事業のおかげで若い人たちの参入が増えました。

それに伴って、各地域の林業が見えやすくなりました。僕がこの仕事を始めた当初は、隣の奥多摩町でさえ、誰がどのように働いているかわかりませんでしたから。各現場がそれぞれ、「親方のやり方が絶対」という閉鎖された世界だったんです。それが、「緑の雇用」事業で複数の森林組合が一緒に研修を受ける機会ができたことで横につながれるようになりました。もちろん、SNSなどインターネットの影響もあります。新たに林業に入ってきた若い人たちがSNSで発信することで、情報の共有も活発になりました。

ただ、若者の参入が増えたとはいえ、離職率も高く、林業に携わる総人口は25万人といわれたピーク時の5分の1程度。林業人口を増やしていくには、この世界に入った若い人たちが働き続けたいと思える環境、つまりは生活できる・儲かる業界にしないといけません。簡単ではありませんが、さほど手がつけられていない分、可能性は大きいと思っています。

——2006年に東京チェンソーズを立ち上げられていますが、その歩みを見ていると、まさに「稼げる林業」へのプロセスだったように思います。ただ、20年前の林業の実情を考えると、そこに飛び込むのは勇気がいることだったのではないでしょうか。

青木 たとえば日給月給制など、不利な実情もありましたが、当時は結婚もしていなかったので待遇については二の次でした。それに、僕が森林組合に入った当時は就職氷河期でもあったので、あまり待遇には期待していなかったんです。それより自然の中で働きたかった。どうせ期待できないのなら、やりたいことをしたほうがいいなって(笑)。実際、山で働いてみると、ものすごく気持ちが良かったんです。間伐など人の手を加えることによって荒れた山の環境が改善する、そんな様子を目の当たりにできる仕事にやりがいも感じました。

ただ、自分の後に入ってきた若い人たちの中には子どもがいる人もいて、現状の待遇では、いくら仕事に魅力を感じたとしても、続けていくことは難しいと思うようになりました。そこで、森林組合に待遇交渉してみたものの状況を大きく変えるには至らなかった。それなら独立して自分たちが理想とする会社、業界にしていこうと、4人のメンバーで東京チェンソーズを立ち上げたのです。

——林業を続けるという選択をされたのですね。収益性に不安はなかったのでしょうか。

青木 森林組合と交渉する中で、自分たちが実際に現場でどれくらいのお金を稼ぎ出しているかを数値化していたので、独立してもやっていけるという予測は立っていました。森林組合に、広域合併によって内部をスリム化して業務を外注化する動きが出始めていたこともあり、独立自体はスムーズでしたね。良好な関係のまま独立できました。

もちろん、楽観視はできない状況でしたが、林業自体に対するネガティブな感情はまったくありませんでした。高齢化の進むこの業界で、若い僕らが頑張らなくては、という気持ちも強かった。組合への待遇交渉も独立もすべて、この仕事を続けていくためにはどうしたらいいのかという課題解決のための行動でした。林業を続けていくため、常にそう考えて、ここまできたと言えるかもしれません。

木を切り出して、初めて肌で感じた林業の現状

——独立後しばらくは、森林組合からの下請け仕事が100%だったそうですが、2010年に元請けにシフトしていますね。それはどのような経緯だったのですか。

青木 独立したとき、「月給制」「社会保険加入」は絶対に取り入れると決めていたので、そこから逆算して月の売上目標を決め、いかに効率的に仕事をこなすかを考え、仕事のクオリティを上げていきました。ただ、3〜4年も経てば限界はきます。当初の目標はクリアして、経営は安定していたのですが、自分たちが企業理念として掲げていた「美しい森林を育み、活かし、届ける」の実現のために活動したり、そのための人を増やしたりするまでの余裕はありませんでした。そこで、次の段階として元請けにチャレンジすることにしたのです。

東京都で4番目となる林業経営体の認定も受けましたが、いきなり元請けにシフトしたわけではありません。「緑の雇用」対策事業を利用して人を育てながら、下請けで経営を安定させつつ、徐々に信用を得て元請けの割合を増やしていきました。2014年ごろからは伐採・搬出にも挑戦しています。

——林業というと、「木を伐採し、製材として市場に出す」ことを漠然と連想しますが、伐採・搬出を始めたのは、この段階だったのですね。

青木 そうです。これまでは「育てる時代」でしたから。実際に伐採して市場に出す仕事を始めて、あらためて林業の陥っている現状を、身をもって知ることになりました。森林から木を切り出し、丸太のいい部分を3〜4mに玉切りして、トラックに積んで市場に運び、競り(せり)にかけるのですが、この1本がいくらで売れると思いますか? ……3,000円です。60年かけて育てた重い木を苦労して運んで、高級フルーツ1個分ほどの値段でしか売れない。産業が成り立つわけがありませんよね。

こんなふうに丸太を売る林業からは脱却しないといけない。そのためにどうするかを考えました。市場価格を上げることは自分たちだけではできません。そこで、1本の木の価値を高める方法を模索したのです。たとえば、丸太を薄く輪切りにすると、子どもの遊び道具や石畳のような素材として使えます。それを1枚600円で売ると5枚で丸太一本分になる。樹皮を剥き、表面を滑らかに仕上げるとさらに高く売れます。枝や樹皮、根などこれまで捨てていた部位も活用することにしました。葉のついた枝は、ディスプレイやリースの材料として使ってもらえます。これまでの大量生産・大量消費の時代には、建材には規格が求められ、曲がった木や、丸太以外の部位は捨てられましたが、今はむしろ個性ある木材へのニーズが高まっています。こうした素材を単価とともにリストにして「一本丸ごとカタログ」という冊子を作りました。

一本丸ごとカタログ

当社では、10ヘクタールの社有林と、管理を委託されている周囲の林を合わせて25ヘクタールの森林に対して、「森林管理(FSC®︎-FM認証)」を受けています。また、その森林から消費者に林産物を届けるために、「加工・流通過程(FSC®︎-CoC認証)」も取得しています。それら認証に則って計算すると、当社が伐採できる木は80立米(㎥)ほど。市場に持っていけば、わずか80万円にしかなりません。それを独自の直販ルートや1本丸ごと商品化するなどで最低3,000万円、ゆくゆくは5,000万円程度で売り上げるようにすることが僕たちの目標です。

——資源の利活用からも夢のある事業だと感じます。他にも「東京美林倶楽部」「森デリバリー」など、従来の林業からの脱却ともいえる取り組みをされていますが、それぞれ目指しているものをお聞かせいただけますか。

青木 当社の規模だと、製材の分野で他の会社と差別化することは難しい。そこで小ロットで付加価値を高め、オーダーメイドに近い「顔の見える林業」を目指そう、というのが僕たちの考え方です。それらの取り組みは、その一環ですね。

「森デリバリー」は、素材(木材)を持って各地の商業施設やイベント会場、幼稚園などに出向き、木を使って、ぶんぶんごまやスプーンをつくるワークショップを行ったり、素材を販売したりするものです。多くの人に木の良さを伝え、使ってもらうために、こちらから出向いて使い方の提案をしようという試みですが、いざ始めてみると、お客さんから逆に提案を受けたり、イベント会社から声がかかって別のイベントに招かれたりと、思いもよらない効果もありました。大手企業との接点にもなっています。2019年に無印良品とのコラボで商品化が実現したのも、「森デリバリー」がきっかけでした。

「東京美林倶楽部」は、3本の苗木を30年間かけて育てていくプロジェクトです。1口5万円の入会金と年会費1,000円をお支払いいただくと、苗木の植え付け、下草刈り、枝打ち、間伐など、節目節目に林業の作業体験をしながら、30年後に、3本のうち2本を家具や建材などに自由に使っていただけます。そして残りの1本を山に残してもらうことで、東京に美しい森林をつくる。現在、約230家族に参加いただいています。このように、木に関わりたいと思ってくださる人たちとの縁が最低でも30年という長きにわたって続くことは、僕たちにとって非常にありがたいこと。檜原村のイベント情報を送ったり、檜原村産の木材製品の案内をしたりと、いろいろな形でお付き合いができています。

森デリバリーに使われる車

——「檜原村トイビレッジ構想」も、そうした活動の延長線上にあるものですか。

青木 日本には、家具の産地として知られる場所はありますが、木のおもちゃで知られる場所はありませんよね。東京都(島しょ部除く)で唯一の村である檜原村が、ドイツのザイフェン村のように、「木のおもちゃの村」として認知されたら面白いのではないか。そう考えて村に提案を続けたところ、「檜原村トイビレッジ構想」が立ち上がったというのが経緯です。

今、檜原村の人口は約2,200人。僕が移住した20年前が約3,500人だったことを考えると、とても早いペースで減少しています。村の将来を考えたとき、木のおもちゃは非常に可能性のある商材です。木製品は、安心安全という観点から子育て世代の関心が高いし、子どもの出生にともなって新たな購買層が生まれる。今、木のおもちゃの国内自給率は5%程度で、大きな伸び代もあります。

——2019年11月に村の「おもちゃ工房」が稼働したと伺いました。

青木 はい、その運営を当社で担っています。2021年には、その隣に体験型ミュージアムとなる「森のおもちゃ美術館」が建設されますし、近隣に他のおもちゃ工房が移転してくる計画も進んでいます。

子どもたちは、これからの日本の社会を作っていく存在です。そんな子どもたちに木の魅力や森林のことをきちんと伝えることができれば、彼らが大人になったとき、木に親しんでくれたり、檜原村を「木のおもちゃで有名な村」と認識してもらえたりする。産業として発展すれば、地元の子どもたちが大人になった時に働くことができるかもしれない。人口が減少する檜原村を盛り上げるためにも、子どもたちは、僕たち林業に従事する者だけでなく、村にとっても重要な訴求先なんです。

工房で作られる贈答用のおもちゃ

林業での成功事例が少なすぎる。僕たちがそれをつくっていく

——木の成長にかかる年数を鑑みると、林業は非常に長いスパンで考えるべき仕事であり、近年、社会課題のキーワードになっている「持続可能な開発」も、林業においては当たり前の考えとも言えるかもしれませんね。

青木 僕たち林業に従事する者が、特段「持続可能な開発」を意識して仕事をしているかというと、そうとは言い切れません。キャッチフレーズも大事だと思いますが、林業においていちばん大切なのは、それぞれの地域でしっかり山や森林を整備し、そこから切り出される素材をきっちり使えるものにすることだと思っています。林業に真面目に向き合った結果が、社会課題の解決につながっていくんだと思います。

——テクノロジーの発展著しい今、林業の役割とはどのようなことだと思いますか。

青木 もちろんAIもIoTもこれからどんどん進化するでしょうし、進化すべきだと思っています。ただ、その反面、そうした進化や変化に疲れている人も少なくないのではないでしょうか。デジタル化が進めば進むほど、その対極ともいえる自然との触れ合いが大切になる。あと40年経てば、東京の山は樹齢100年の森林になります。そのとき、森林が産業の場であるとともに、美術館や博物館と同じように気軽に行ける学習や癒しの場所となっていてほしい。そのために、僕たちがすべきこと、林業の役割は多いと思っています。その第一歩が「森デリバリー」や「東京美林倶楽部」、「檜原村トイビレッジ構想」なのです。

農業や漁業では、若い人たちも頑張ってさまざまな取り組みを進めていますが、林業に関しては成功事例があまりにも少なすぎます。本来は、各地に個性の強い林業会社があっていいはず。僕たちは、林業会社として地に足のついた仕事をし、多くの人に共感してもらうことで、林業が変わるきっかけをつくりたいです。東京都の約3割強、国土の約7割を森林が占めるということは、林業には、まだまだ潜在的な可能性があるということ。日本の林業がもつ可能性について多くの人に知ってほしいし、その可能性を産業としての成功に結びつけていきたいですね。

TEXT::佐藤淳子、PHOTO:山﨑美津留

青木亮輔(あおき・りょうすけ)

株式会社 東京チェンソーズ 代表取締役
1976年生まれ。大阪府此花区出身。東京農業大学林学科卒。1年間の会社勤めの後、2001年、檜原村森林組合に入る。2006年に独立し、東京チェンソーズ設立(法人化は2011年)。「東京美林倶楽部」「森デリバリー」といった独自の取り組みで注目を集める。内閣府規制改革推進会議農林WG専門委員。檜原村木材産業協同組合代表理事。檜原村林業研究グループ「やまびこ会」役員。(一社)TOKYOWOOD普及協会理事。ツリークライミング®ジャパン公認ファシリテーター。日本グッドトイ委員会公認おもちゃコンサルタント。東京未来ビジョン懇談会メンバー。東京都西多摩郡檜原村在住。

アフリカ布×浴衣――日本人起業家がベナンで目指す「寄り添う」ソーシャルグッド

西アフリカで流通する伝統的なアフリカ布、パーニュ。近隣諸国では年々使われる機会が減っている中、ベナンでは今も多くの人たちがパーニュで仕立てた服を着ている。しかし、ベナン国内においては需要を上回るほど多くの仕立屋が存在するため、技術を持ちながら仕事を得られないでいる女性が少なくない。

そこでパーニュの活用先として日本の伝統衣装である浴衣に着目したのが、株式会社シェリーココ代表の川口莉穂氏。クラウドファンディングを活用しながら、浴衣以外にもデザイン性の高い商品を生み出し、現地の雇用創出を実現させている。公的機関ともNPOとも違う、ビジネスを通した新しい支援の在り方について、同氏に話を伺った。

タイ留学が灯した、途上国支援への消えない情熱

――川口さんは大学卒業後の2014年から2016年にかけて、JICAの青年海外協力隊の隊員として西アフリカのベナン共和国で活動されました。そもそも途上国支援に関心を抱かれたきっかけは何だったのでしょう。

川口 高校2年のとき、交換留学生としてタイの田舎町に行ったことです。当時の私には特に将来の夢はなく、タイ留学も母や姉に背中を押されて決めたに過ぎませんでした。ですが、現地の友人の質素な暮らしぶりや、私と同世代の女の子たちが客引きをする姿に衝撃を受けて、途上国の抱える社会問題に目が向くようになりました。帰国後は児童売春について調べたり、それを題材にした映画を見たりと、関心が途切れることはなく、大学入試の面接でも「児童売春を解決したい」という話をしました。

――大学ではどんなことを学ばれたのでしょうか。また、青年海外協力隊への参加はいつ決められましたか。

川口 ソーシャルイノベーションや子どもの心理について学んでいました。大学で4年間を過ごしても、途上国支援の道に進みたいという気持ちに変化はなく、就職活動中も同様で、唯一就職したいと思ったのがJICA(独立行政法人国際協力機構)でした。ただJICAは不採用になってしまいまして……。そこから青年海外協力隊へ目を向けたのは、大学卒業後のことです。「JICA職員にはなれなかったけれど、青年海外協力隊というものがあったな」と思い出し、応募しました。2年間現場に入れる協力隊はとても魅力的だなと思ったので、参加を決めたんです。

川口さん

――青年海外協力隊はさまざまな国で活動を行なっています。ベナンに行くまでにどのような経緯があったのでしょうか。

川口 応募の際には希望する国を3つと、それぞれの志望理由などを書きます。私はタイで活動している自分しかイメージできなかったので、第一希望以外は空欄にしました。タイ語が喋れたので即戦力になるだろうという思いもありました。

ところが、蓋を開けてみると、派遣先はなぜかベナンだったんです。それもまったく知識のない学校保健の担当でした。公用語のフランス語ももちろん話せませんでしたし、正直、いまでもどういう基準で私がベナンに選ばれたのかはわからないままです。

――ベナンではどこでどんな活動をされていたのですか。また、実際に現地に行って驚かれるようなことはありましたか。

川口 私が赴任したのは、ナイジェリア寄りの内陸にあるアジョウンという小さな町です。途上国にはタイで慣れていたせいか、カルチャーショックはそれほど感じませんでしたね。ただ、一番驚いたのは、ベナンの人たちがすごく親切で人懐こいことでした。家族や親戚、友人だけでなく、はじめて会う人でも何かあったらすぐに手を差し伸べる、とても心優しい人々だったんです。

現地での私の仕事は、週に5日、地域の小学校をまわっての手洗いなどの保健指導や、各家庭を訪ねるマラリア予防の啓蒙活動などでした。夕方には仕事が終わるし、土日はお休み。意外と空き時間がありましたね。

人との出会いが生んだアフリカ布×浴衣ビジネス

――その中で出会ったのが、「パーニュ」というアフリカ布だったのですね。

川口 そうです。パーニュのようなアフリカ布は、アフリカのどこにでもあります。衣服用としては、Tシャツに取って代わられている国もありますが、ベナンではまだ半分以上の人がパーニュで作った服を身にまとっています。特徴は、見ているだけで元気になってくるカラフルな色彩と多彩な柄です。ベナンは綿花栽培が盛んなこともあって、市場に行くとパーニュがそれこそ何千何万と並んでいるんですよ。私は無地の服が好きなのですが、そんな自分でも「かわいい」と感じるパーニュがたくさんありました。なので最初は個人的に購入し、ワンピースや浴衣にしていました。

ベナンのパーニュ市場

ベナンのパーニュ市場  提供:川口莉穂氏

――最初から浴衣を作っていたわけですか。

川口 はい。浴衣を日本から持参していたので、それを仕立屋さんに持ち込んで「同じ物を作ってほしい」と頼みました。後でわかったことなのですが、ベナンの職人は下手に型紙を見るよりも現物を見た方が作れるようです。また、これも偶然なのですが、浴衣は袖の一箇所を除けば全て直線縫いで、浴衣を知らない外国人でも縫いやすい形状をしています。もちろん、このときはまだパーニュの浴衣を日本に輸出しようなどという考えはなく、単に自分用に作っただけでした。

――それがどうしてビジネスにつながっていったのでしょうか。

川口 きっかけは、人々との出会いでした。現地で私が住んでいた家の近所に、ベルアンジュという中学生の女の子が住んでいて、何度も顔を合わせている間に仲良くなったんです。そうしたら、ベルアンジュの家に出入りしているメメという3歳の男の子と、そのお母さんとも知り合いになりました。メメのお母さんはシングルマザーで、仕立ての資格を持っているけれど今は仕事がなく、ベルアンジュの家族からお金や食べ物を分けてもらって生活しているというのです。そこで、ベルアンジュと「メメ親子のために何かできることはないだろうか」と相談して閃いたのが、浴衣ビジネスでした。パーニュで浴衣を作って、それを日本で売れば彼女の収入になると思ったのです。

そこで協力隊の仕事をする傍ら、浴衣の縫製を始めることにしました。2015年に日本のクラウドファウンディングサービスを使って資金を募ったところ、75人の方から合計70万円以上の支援をいただくことができたので、これを元手にミシンを購入し、同年にはアトリエを構えることができました。当初のスタッフは、縫製担当がメメのお母さんともう一人、パーニュの仕入れやアトリエ運営担当はベルアンジュというごく小規模なものでした。

シェリーココのスタッフたちとその家族

シェリーココのスタッフたちとその家族  提供:川口莉穂氏

――川口さんは現在どのくらいの頻度でベナンに行かれているのでしょうか。

川口 年に3回くらいは現地に行っていて、一度につき1〜2ヶ月は滞在します。その間にパーニュを仕入れたり、新しい職人を雇ったり、提携先と打ち合わせをしたりと、現地でしかできない仕事をしています。パーニュは、アトリエのある町から1日かけて大きな町に赴き、仕入れます。パーニュだけが売られている市場で使えそうな柄を探すのですが、私はこだわりが強いのか、1日中見ても気に入った柄が見つからない日もあって(笑)。

ここ数年、アフリカ布は日本でも人気が出始めているのですが、私が目指しているのは、アフリカ布のファンではない日本のお客様にも「かわいい」と感じてもらえる商品作りです。そこを意識して、日本で好まれるような花柄などの布を選ぶようにしているので、実際、アフリカ関連のイベントで他社さんの製品と並ぶと、シェリーココだけちょっと浮いていたりしますが、自分ではそれでいいと思っています。

「日々の生活に寄り添う」中で「世界を変える」支援の形

――アトリエを開いた翌年に、青年海外協力隊の任期終了に伴って帰国されましたね。2017年には法人化されていますが、個人事業主ではなく株式会社にしたのはなぜでしょうか。

川口 すでに実態としての事業があるので、社会的な信頼を得る意味でも法人にした方がいいと思ったのです。また、シェリーココの商品は、単純に「かわいい」ものだから売るのであって、「開発途上国を助けてあげよう」というような動機で買ってもらうものにはしたくなかった。商品の背景を知らなくても購入していただけるようなビジネスとして成立させたいという思いを持って、会社にしたんです。そして売る以上は、日本のお客様が納得するクオリティでなければいけない。だから、その点も縫製スタッフにきちんと説明して、丁寧な仕事を心がけてもらっています。

――起業されて3年目になります。事業の現況について教えてください。

川口 商品のラインナップは浴衣だけだったのですが、どうしても売れる時期が夏に限られてしまうので、現在は雑貨やアパレルといった、年間を通して需要がある物も作っています。最初はクラウドファンディングのリターンとして送るのみでしたが、自社オンラインショップを中心に、リアルの場では商業施設の催事場や、アフリカ関連のイベント会場に置くなど、販売経路も拡大しています。おかげさまで認知度も向上してきており、友人や知り合い、あるいはそことつながりのある方が買ってくれる程度だったのが、まったく知らない方からの注文が増えてきました。また、ベナンでも自社アトリエのほかに、いくつかの仕立屋とも提携し、商品にバリエーションを出しています。

――実店舗として、直営店を持つ予定はあるのでしょうか。

川口 実は一度、実店舗を持つことを目指して生産量を増やしたことがあります。ところが、待っていたのは非常に忙しい毎日で、気がつくと私もベルアンジュも仕事量のキャパシティを超え、精神的余裕を失ってしまいました。メメのお母さんを含めスタッフたちにも、長時間の作業をさせてしまうことになり……。そのとき、「これは自分が目指していたものとは違う」と感じて一旦計画を白紙に戻したのです。シェリーココの事業はベナンにいる女性たちの日々の生活や、自立を支援するためのものであって、無理に会社を大きくすることが目的ではない。だから、店舗を持つのはまだ先でいいと決めました。

川口さん

――働いている人が幸せでないと意味がないですものね。ところで、日本だけでも、さまざまな形で途上国支援を行なっている方々がいらっしゃいます。彼らの活動や、従来の国際支援の在り方について、何か思われていることはありますか。

川口 アフリカを見ていると、最近は私と同じくビジネスという形での支援をお考えの方が多いようです。しかし、依然としてお金や物資の支援だけで終わっている方々もいます。もちろん、災害などの緊急時にはそういった支援が必要なので完全に否定はしませんが、個人的には疑問を感じる部分もあります。

先日もベナンに行った際、いきなり路上で「お金をくれ」と現地の男子学生に言われました。話を聞くと、住民にお金を渡している日本人が同じ町にいたそうなのです。そのせいで、彼の中では「外国人はお金をくれる存在」ということになってしまった。こうした行為は、結果的に彼らの自立を妨げることになってしまいます。支援をするのなら、本当の意味で現地の人の役に立つ支援を考えなくてはなりません。ただ、その方法は現地に深く入り込まないことには見出せない気もします。

――川口さんは現地に深く入り込み、アフリカ布製品の市場開拓とベナン人女性の雇用創出を両立されています。易しいことではないと思いますが、ご自身のモチベーションはどこから生まれているのでしょうか。

川口 大学時代までの私には「世界を変えたい」といった大きな夢がありました。けれど、ベナンに来て現地に入り込めば入り込むほど、その思いは形を変えていきました。私が出会った現地の人々は、大きな未来といったものは見ていなくて、日々の生活を懸命に送っています。

そして、経済的には裕福ではないけれど、困った人がいればすぐ手を差し伸べる。赤の他人でもお金に困っている人がいれば、自分が借金をしてまで用立ててあげる姿もみてきました。最初にお話した通り、やはり親切で人懐こい。私はこうしたベナンの人々の姿勢がとても好きですし、ベルアンジュやメメのお母さんたちとの関係を大切にしたいと願っています。彼女たちがいるからこそ、シェリーココの活動もできる。逆に言うと、「世界を変えたい」というような大きな目標をモチベーションにしていたら、ここまで続けることはできなかったように思います。

川口さん

川口 実は日本に戻った頃、はたして私はこのままでいいのだろうか、と悩んでいた時期もありました。そのとき、JICA職員として働いている友人が「JICAもシェリーココも目指しているところは同じだよ」と励ましてくれました。JICAは遠い先を見通して事業を行なっている。一方、シェリーココは近い未来を見ながら毎日を積み重ねている。見ているところは違うけど、結果としては同じ場所につながっているのではないか、という友人の言葉で、とても気持ちが楽になりました。

もちろん、ベナンという国がもっと良くなれば嬉しいですし、できることなら世界をいい方向に変えたいです。でも、それはあくまで結果であって、いまの私のモチベーションは、自分を支えてくれるシェリーココの仲間たちと前に進んでいくこと。ですから、彼女たちとの関係が崩れない限り、この活動は続けていくと思います。

私の場合は、どちらかというと、大きなことを話し合う場にいるよりも、現場で泥臭く活動する方が合っているようです。これからもそうした姿勢で現地に寄り添って生きていきたいですね。シェリーココの取り組みを通じて、お金や物資だけじゃない国際支援の方法があると若い世代に伝えることには、大きな意義があると考えています。

川口さん

TEXT:中野渡淳一、PHOTO:山崎美津留

川口莉穂(かわぐち・りほ)

株式会社シェリーココ 代表取締役社長
1990年、神奈川県生まれ。慶應義塾大学総合政策学部卒業。高校2年生のときに留学したタイでの経験から国際協力、途上国支援といった分野に興味を抱く。同大卒業後の2014年に青年海外協力隊の隊員として西アフリカ・ベナン共和国に渡る。現地で青少年活動に従事するかたわら、現地女性の雇用創出に取り組む。2015年よりアフリカ布を用いた浴衣の製作を開始。日本帰国後の2017年、株式会社シェリーココを設立。現在、同社代表取締役社長。

38億年つづく生命の歴史のなかで――中村桂子が語る、テクノロジーと人間

大阪府高槻市に世界的にも稀少な「生きているとは何か」を考える研究施設がある。「JT生命誌研究館」と名づけられた館内では、生物学者が実験室で研究を行っているだけではない。館長の理学博士・中村桂子氏のもと、生きていることへの関心、興味への扉を多くの人に開放しようと創造的な活動が続けられてきた。

半世紀以上にわたりDNA研究に携わってきた中村氏は、生きていることを知るためには、生物科学の研究領域のみならず人文学や芸術と共に、更には生活感覚を生かして新しい知を組み立てる必要があると説く。その考えを深めるため、「人間と自然」という向き合う関係性ではなく、「自然の中の人間」という立脚点から、「生命誌」(Biohistory)を提唱し、生命の歴史を曼荼羅のように視覚化しわかりやすく伝え、考えてきた。

生きものとしての人間とは? 有機的な生命体の中に溶け込み始めたテクノロジーと、人間はいかに理想的な関係を築くべきなのだろうか。お話を伺った。

生命の歴史をひもとき、「表現」する

――まずは、中村様が提唱されている「生命誌」(Biohistory)について、ご解説いただけますでしょうか?

中村 地球上には38億年ほど前に生まれた細胞を祖先として、約5千万種とも言われる多様な生きものが暮らしています。これらはひとつの例外もなく、DNAという物質を基本に生きています。生命科学では、そのDNAを生きものの命を支える最小限の単位として捉え、その構造と機能を探り、人間(生物学上ではヒト)も含め各々の生きものの特性を見出そうと努めてきました。

ただしそれは17世紀にガリレオやデカルトなどが導いた科学革命による、機械論的自然観に基づいています。デカルトは心臓を「ポンプ」に例えるなど、ヒトのカラダのさまざまな生命器官を機械における部品(パーツ)のように捉えました。こうした考え方は、現在でも、生物科学における主流になっています。

その中で私は、「生きているとは何か」を知るには日常感覚に基づいた柔らかな視座が必要と考えるようになりました。哲学や社会学などの学問、また美術や音楽、文学などの芸術が「人間ってなんだろう」「生きるってなんだろう」という疑問に取り組んできたように、研究から得た事実をもとに「表現」を通して考えようと思いました。たまたま細胞内のDNAのすべてをゲノムとして捉えられるようになったので、生命全体の38億年という長い歩みを俯瞰し、生きものすべての歴史と関係を理解できるようになったのです。そこで、ヒトを自然の一部として視る生命論的世界観に立って「生命誌」という新しい知を研究し始めました。

――科学を表現する。聞き慣れない言葉ですが、具体的にはどのようなお考えなのでしょうか。

中村 例えばベートーベンの交響曲第五番『運命』は多くの人が知っている曲です。でも、音楽を勉強していない私には、この曲の楽譜から音がわき起こることはありません。科学の論文は音楽家にとっての楽譜と同じで、専門知識のない方には読み解けません。楽譜は必ず演奏されて聴き手に伝わります。科学も演奏しよう。つまりどなたも楽しめるように、生きものとそれを知る科学の面白さを伝えたいと考えました。

そこで、1993年に、現在私が館長を務める「JT生命誌研究館」を設立しました。一般の方たちにも開放された、生きものの歴史物語(生命誌)を読み解き、描き出す館(Hall)です。4つの研究室では、身近で小さな生きものであるチョウ、クモ、カエルなどの研究をしており、大阪大学の大学院生もいます。5つめの室は、研究結果の表現法を考えています。来館者に向けて、生きものの進化を表現するコンピュータグラフィックや模型などの展示物を作ったり、「季刊 生命誌」の発刊や「生命誌マンダラ」の作成など他に例のない活動をしています。セミナーや研究室の一般公開も積極的に実施しています。25周年記念には、宮沢賢治の『セロ弾きのゴーシュ』を生命誌の観点から解釈し、音楽人形劇として上演しました。

38億年つづく生命の歴史を表した「生命誌絵巻」(原案:中村桂子、協力:団まりな/絵:橋本律子)

生命誌研究館のサイトではペーパークラフトや読み物を通して、「生命誌」に親しむことができる

――研究グループと表現グループが共に活動されているのは興味深いです。

中村 世界的に見てもこのような研究機関はおそらく存在しないと思います。30年ほど前、私が「生命誌」の考えを研究者仲間に公にした頃は、奇異な目で見られていました。マウスやショウジョウバエなど「モデル生物」といわれる決まった生きものしか研究対象にしていなかった時代に、チョウやクモ、オサムシなど身の回りの生きものに目を向け、本格的な研究に取り組んだのも、おそらく私たちが初めてだったでしょう。自然の中で暮らすさまざまな生きものを調べてこそ、生きているってどういうことだろうという問いへの答えが出せると考えました。

研究館開設初期に行ったオサムシの研究では、「生命誌」を具体的に考える上で、本当に大切なことを学びました。オサムシは飛べないので、日本列島の中でDNAによる生息分布が北海道、東北、九州地方などと分かれるのですが、明確な境界の意味がわかりません。ところが、地質学の先生がそれは日本列島形成の歴史を示していると教えてくださったんです。

オサムシの生息分布図と日本列島形成の歴史(提供:中村桂子)

オサムシの生息分布図と日本列島形成の歴史(提供:中村桂子)

学者は専門領域だけを見ているので、地質学の先生は地質だけを、生物学者の私たちは生きものだけを見ており、自然そのものを見ていなかったのです。この研究では、オサムシ集めをアマチュアの方がしてくださるなど、いろいろなことがつながり、「生命誌」研究の大切さを、改めて強く感じました。最初にこの研究に出会えたのは幸運でした。

地球上のすべての生きものは、同じDNAを持っている

――ご専門はDNA研究です。DNA、ゲノム、遺伝子について、多くの人がなんとなくの理解で終わっているように感じられます。一般の私たちにもわかりやすいよう、その関係性を教えていただけますか?

中村 DNA(デオキシリボ核酸:deoxyribonucleic acid)という高分子生体物質が19世紀の中頃に発見されてから約150年。「二重らせん」構造の発見からは約65年が経ちますが、私がその構造の美しさと機能に惹かれ、生物学の世界に入った当時から比較すると、小学生までもがDNAを知る時代になって驚いています。

DNAは細胞の核に、染色体23対として入っています。染色体は、ヒストンというタンパク質のビーズのようなものに、二重らせん構造の極細の糸のようなDNAが巻きついてできています。23本の染色体全部のDNAをひとかたまりとして「ゲノム」といいます。人間であれば、「ヒトゲノム」。アリなら「アリゲノム」、オサムシなら「オサムシゲノム」です。

文章と言葉に例えるとわかりやすいかもしれません。DNAという言葉(単語)を使ってゲノムという文章が綴られており、私の提唱している「生命誌」では、ヒトのゲノム、生きもののゲノムの約束ごとや文法を読みとこうとしています。ゲノムには、ヒトも含め、それぞれの生きものがどのようにしてその生きものになったのかという過程と生きもの同士の相関関係が書き込まれており、さまざまな生きもののゲノムを比較することによって、生きもの全体の総括的な進化の歴史を知ることができます。

また、皆さんがよく口にされる「私の遺伝子」はありませんし、さらに言えば、ヒト固有の遺伝子というものはないんです。

――では、なにがひとりひとりの相違、生きものごとの特徴を生むのでしょうか?

中村 それは遺伝子の組み合わせの差、さっき申し上げたゲノムの差です。23対で46本ある染色体からは、ほぼ無限といっていいほどの組み合わせが生まれます。組み合わせ……つまりゲノムによって、生きものごとに表現するものが個性、特徴、性質なんです。

面白い例をご紹介しましょう。アゲハチョウの子どもは偏食でミカン科の葉っぱしか食べないのですが、私たちは、母親アゲハチョウがどうやって多種多様な植物の葉っぱの中から、ミカン科の葉を識別し、産卵するのか研究しています。母親アゲハは、前脚の部分に葉っぱを味見するための細胞を備えた特殊な毛を持っています。この細胞の構造は、人間の舌にある味蕾(みらい)という味を感じる器官とまったく同じなのです。つまり、アゲハチョウとヒトは共通の遺伝子のはたらきで味を見ているわけです。

このように、地球上のすべての生きものは、同じDNAを持っています。ヒトもイヌも、庭に咲くバラの花も共通のDNAを持ちます。そうやって遺伝子は、さまざまな生きものの中で、各々固有のゲノムにより少しずつ変形しながらはたらいています。先ほどの味覚に関する遺伝子も、ヒトの細胞の中に存在してはたらいているときには「ヒトの遺伝子」とされ、アゲハチョウの中で機能していれば「アゲハチョウの遺伝子」になるのです。

中村さん

――アゲハチョウと人間の間に、そのような共通点があったとは驚きました。

中村 私が「生命誌」を通じて言いたいことは、とても簡単なことです。地球上の生きものは、すべて同じ祖先から生まれた仲間だということ。人間も他の生きものと同様に、自然の中に生きている、自然の一部なんですよ、ということです。人間だけが特別な人間固有のDNAでできているわけではないのですから。

私は、DNAの研究を始めたときに、ある種の解放感を得ました。「わたし」という存在は、地球上に暮らす約5千万種の多様な生きものたちと同じルーツを持つDNAを通して、38億年という長い時間を共有していると思えたからです。時間的にも空間的にも驚くほど広がりを感じ、人間がつい陥りがちな「わたし」という自我への執着を手放せたのです。

一方で、この先、地球上のあらゆる生きものを通しDNAが何十億年続いていこうが、いま、この世に生を受け、この組み合わせのゲノムを持つ人間は「わたし」しかいない。その自然の摂理の中で生まれた奇跡に感謝し、自分の人生を大切にしたいと思いました。自分が、大いなる自然の一部なんだと自覚することで、人間は、他者や他の生きもの、ひいては自然に対しても尊重の思いがおのずと湧き出るのではないでしょうか。

生きものとして「ふつうに生きる」ことで見えてくるもの

――「生きるとはどういうことか」をひとつの命題として追究されてきた中村さんにとって、人間とテクノロジーが共存し、助け合いながら社会を築いていく未来について、どのようなお考えをお持ちでしょうか?

中村 テクノロジーは人間さえしっかりしていれば、非常に有効で役に立つものです。人類がその恩恵を受けて文明を築いてきたのは確かです。ただ、昨今の急激なテクノロジーの進化で、多くの人がある種の脅威を感じていることも確かです。「AIが人間を超える」と考える方が大勢いらっしゃるのには驚きます。人間とは何かがわかっていないのにそれをどうやって超えるのでしょう。

コンピューターはコンピューター。素晴らしい機能を持っていて、私たち人間にはできないことができますが、人間と対立させたり、同格に考えてはいけません。人間は38億年の生命の歴史を持っていて、コンピューターとはまったく異なる存在です。例えば人間のもつ想像力、イマジネーション。それはデータから導き出される予測ではなく、未来のこと、過去のこと、もしくはアフガニスタンの戦火の中で暮らす子どもたちに思いを馳せる能力です。イマジネーションの中には「思いやる」という感情も内在しています。

ですから、コンピューターが「人間を超える」と比較するのは意味がありませんでしょう。いまの社会の構造は、人間が生きものとして生きようとするにはとても生きづらいと感じます。文明社会は競争社会でもあります。車を作る工場では標準規定があって、少しでも異なると市場に出荷されませんが、それは機械だからです。人間は生きものだから、ひとりひとりみんな違います。標準型はなく、規格外もありません。そう、「みんな違う」というところが、いきものの面白さなんです。そもそも、ヒトは、生物学でもまだほとんど解明されていない。わからないことがあるのが面白く楽しい。これが生命誌研究の一番よいところだと思っています(笑)。

中村さん

――生きものとしての人間をもっと信頼し、自信を持つべきだと?

中村 そうです。ひとりひとりのゲノムの組み合わせは、38億年の歴史の中でも唯一無二なんです。何にも代えがたい存在。だから人間はAIに超えられると杞憂するより、生きものが暮らしやすい地球環境にするためにAIを活用するほうが賢明です。今こそ人間が、想像力を最大限活用して、知恵を絞るべきです。そこから創造力が生まれますから。

最近、「多様性」という言葉が世の中に浸透していますが、人間が生きものであるという認識があれば、多様は自然なことです。5千万種の生きもの全体の多様性から見たら、人間の多様性なんてごく限られたものにすぎないでしょう?

シンギュラリティや多様性など、人間の社会に大きな変化が起きる、起ころうとしているとメディアが騒ぐからでしょうか。なにか、地に足がつかない気持ちに襲われ、生きものとして「ふつうに生きること」の大切さが忘れられているように感じています。なにも難しく考えなくても、日本列島で縄文時代から人間が綿々と暮らしてきたように、日常の営みに丁寧に目を向けることで見えてくることがあるはずです。

例えば、「食べること」。人間が自然の一部だという思いを持っていれば、植物を含め他の生きものの命をいただいているんだ、ということが感じられます。その命は私たちと同じ38億年かけて続いてきた命。だから「食べる」ことはものすごく神聖でありがたいことだとわかるはずです。今さら「フードロス問題」として取り上げなくても、銘々がそういう意識をもっていれば、おのずと食べものを大切にするでしょう。

私の言う「ふつう」とは、平凡だとか特徴がないという意味ではなく、素直な心で道理にあったものの見方をすることです。何事もそういう視点に立ち、ふつうに美しいとか楽しいと思えることが、政治でも教育でも、テクノロジーの世界でも生かされていけば、人間はもっと生きものとして暮らしやすくなるのではないでしょうか。

TEXT:岸上雅由子、PHOTO:伊藤 圭

中村桂子(なかむら・けいこ)

JT生命誌研究館館長、理学博士。
1936年生まれ、東京都出身。1959年、東京大学理学部化学科卒業、1964年、東京大学大学院生物化学専攻博士課程修了。三菱化成生命科学研究所人間自然研究部長、早稲田大学人間科学部教授などを歴任し、1993年、大阪府高槻市にJT生命誌研究館を設立。主な著書に『中村桂子コレクション いのち愛づる生命誌Ⅳ はぐくむ 生命誌と子どもたち』(藤原書店)、『「ふつうのおんなの子」のちから』(集英社クリエイティブ)他、多数。

「アルゴリズミック・クチュール」――耳慣れない言葉だが、H&Mファウンデーションが主催する「100%循環型のファッション業界」を目指すイノベーション・コンペティション「第4回Global Change Award」で、特別賞を受賞した日本人チームの作品だ。

この作品を開発したのは、Synfluxという慶應義塾大学 大学院の学生によるベンチャー企業。ファッションデザイナーだけでなく、デザインエンジニア、アルゴリズムアーキテクト(建築家 )らが集まり、環境負荷の多さが問題となっているファッション業界において、テクノロジーを活用した新しい表現方法を誕生させている。

Synflux共同創業者であるスペキュラティブ・ファッションデザイナーの川﨑和也さんに、ファッション業界にどんなイノベーションを起こそうとしているのか語っていただいた。

テクノロジーが切り拓くファッションの可能性

――まず、川崎さんの肩書にも含まれている「スペキュラティヴ・デザイン」とは、どのような考え方なのでしょうか。

川﨑 「デザイン」は問題解決のための思考法や技術全般を指しますが、中でも「スペキュラティヴ・デザイン」は問題の提起と発見に重きを置いた考え方です。例えば環境問題は、問題が巨大すぎるため簡単には解決法が見つかりません。そこで、「一体何が問題なのか」を世の中の人たちにわかってもらうために、具体的なプロダクトやサービスで問題を提起するんです。

ファッション産業について言えば、産業自体も巨大ですし、洋服の数も膨大なので 、全てを考慮して環境問題にアプローチするのはなかなか難しいと思います。そこで、急速に発展しているAI(人工知能)やバイオテクノロジーといった技術的な側面と、環境問題を始めとした社会的な側面の間に上手く橋をかけるにあたって、スペキュラティヴ・デザインの考え方を取り入れています。

川崎さん

――2017年に「バイオロジカル・テーラーメイド」、2018年に「アルゴリズミック・クチュール」という作品を発表しています。それぞれどのような作品なのでしょうか。

川﨑 「バイオロジカル・テーラーメイド」は、微生物由来の布でつくったテイラードスーツです。当時「DIYバイオ」といって、キッチングッズや100円均一で揃えられる用具で簡単な生物実験をするのがちょっとしたトレンドで、デザイナーやアーティストが盛んに表現方法として取り入れていました。

そこで僕は、微生物にタンパク質を生成させ布をつくりました。プールのような水槽に、微生物と、砂糖やお酢で調合した培養液を入れます。2週間ほどすると、微生物の働きで生成される タンパク質がプールの水面に溜まっていきます。それを取り出して乾燥させ、洋服に仕立てました。ファッションデザイナーも布を買っています。これだけ化学繊維やプラスチック問題が叫ばれる中で、バイオテクノロジーでつくった布を発表することで、布そのものをとらえ直してほしいと考えたんです。

バイオロジカル・テーラーメイド 写真提供:Synflux

バイオロジカル・テーラーメイド 写真提供:Synflux

川﨑 「バイオロジカル・テーラーメイド」で洋服の「マテリアル」にフォーカスし、文化庁メディア芸術祭などで賞も受賞したので、次に立ち向かうフェーズは「デザイン」でした。「アルゴリズミック・クチュール」は、デジタル技術を駆使し、四角形と三角形を組み合わせた型紙に基づき制作したデザインシステムです。

そもそも、平面の布を凹凸がある人間の体にフィットさせるのはパタンナーの専門的な技術を要する作業です。しかもパタンナー は、フィットさせた布の上で立体感を表現しようとします。生地は平面の四角形なので、それを従来通り曲線に沿って裁断して立体をつくろうとすると、生地がたくさん余ってしまうのです。一説によれば、現状の裁断方法では布の15~25%が廃棄となり、金額換算すると5億ドルにもなるそうです。つまり、環境にとってもロス、企業のコスト面からもロスが発生しているわけです。「美しさと廃棄とはトレードオフの関係だ」という捉え方もありますが、それらを両立させ、立体と平面のギャップを埋めるためにはどうしたらいいかを考え、「アルゴリズミック・クチュール」を制作しました。

アルゴリズミック・クチュールで制作された衣服 写真提供:Synflux

アルゴリズミック・クチュールで制作された衣服 写真提供:Synflux

――ファッションの歴史の中で初めて立体と平面のギャップに挑んだのですね。

川﨑 そうですね。ファッション産業で近年応用が進んでいるデザインツールの一つに、デジタルファブリケーションがあります。例えば、3Dスキャンは実空間にある物を情報空間に移し、CADはそのデータを改変したり編集したりすることができるツールです。「アルゴリズミック・クチュール」では、デジタルファブリケーションに加えAIを活用し、最も布の廃棄が少ない型紙の形を高速で算出します。AIはここ数年で計算速度がとても高速化していて、うまく使えば、欲しい形を素早くデータセットから提案させることができるのです。 その中で、僕らが美的に良いと感じ、かつ廃棄の少ない形を両立させるパターンを選んだ結果、和服の直線裁ちに似たデザインに至りました。そこから、四角形と三角形で構成された、廃棄が少なくなる直線裁ちの型紙を、AIにサポートしてもらいながら自動生成するシステムを開発しました。

飽くなき探究心は「つくることが好き」という気持ちから

――そもそもバイオテクノロジーやAIに関する知識はお持ちだったのですか?

川﨑 バイオテクノロジーに関しては、幸運にも福原志保さんというバイオアーティストの方にいろいろと教えてもらう機会があったのです。僕はバイオロジーの専門家ではありませんが、専門家の知見をお借りしつつ、熱意を持って勉強すれば作品制作が可能なのだとそのときに学びました。「バイオロジカル・テーラーメイド」で使った素材は一般的な繊維とは異なり、放っておけば土に還ります。培養したての布をある程度の期間保たせようとすると加工が必要になるのですが、微生物由来の素材に適した加工方法がまだ存在しないので、レザー製品に使われている方法を転用しています。

――制作のためにあらゆる分野の知識を積極的に吸収されていますが、原動力となっているのはどんな思いですか。

川﨑 「つくることが好き」という気持ちですね。つくることを始めると、技術的なことはもちろん、知らなければいけない知識が果てしなく増え続けます。なぜならファッションは、建築や美術などと共進化してきた分野で、さまざまな文化的知見も必要になるんです。

僕は専門的な領域にとどまらず、どんどんファッションの概念を拡張していきたいと思っています。ファッションは服づくり単体だけでなく社会や技術とも関わりがあるものだということを、デザイナーはもっと知るべきです。今、僕が「スペキュラティヴ・ファッションデザイナー」と名乗っているのは、変なことをやっていても許されるからというのも確かなんです。でも、最近、研究開発や作品制作をさまざまな人と一緒に協同させていただく中で、ファッションがこれまで培ってきた歴史や文化に誠実に向き合おうと心から思い始めています。

――そもそもファッションに関わろうと思ったきっかけは何だったのですか。

川﨑 故郷の新潟から上京してきた2011年に起きた、東日本大震災です。ボランティアに行った被災地で見たのは、住宅が壊れ、食べ物や医療品が不足し、衣食住が崩壊していく風景でした。自然の猛威によって生活が根底から奪われる様子を視覚的に経験したとき、デザインを通じて人間の衣食住に関わる取り組みができないかと強く思いました。

またファッションに関する原体験として、高校の制服の学ランがとても嫌いだったということもあります。学ランは制服なのでどうしても着る必要があり、近所の洋裁店でボタンを変えたり、内側に刺繍を入れたり、上丈を短くして短ランにしたりといった、今で言うカスタマイズをしていました。洋服を自分なりに改変して、自分のアイデンティティを表現できるスタイルにした経験は、ファッションデザインに取り組むようになってからよく思い出しますね。

――高校生時代、制服を着ることに反発したのは何故だと思いますか。

川﨑 おそらく、「これを着ろ」と一方的に押し付けられたからじゃないでしょうか。環境配慮が求められるに連れてつくり方が合理的になると、究極的には服の作り方も最適化に向かうのが望ましい方向性だというのは確かに論理的であるとは思います。しかしながら、本来、衣服は自分のアイデンティティや自分らしさを表現するツールです。しかも、日常生活の中で、ある意味で軽やかに 身体の形を服でリミックスするように 「自分」を表現することができる。シャツの上のボタンを外すなどちょっとしたアレンジをするだけで、人は皆それぞれ表現を取り入れていると言えるのだと思います。そのようなファッションが実現する「楽しさ」をインターネット文化やテクノロジーとの融合を通して展開していくことが、今まさに必要だと思っています。

ファッションを「楽しむ」ことが突破口になる

――昨年のH&Mのコンペティションで「アルゴリズミック・クチュール」が特別賞を受賞して以来、欧州からの問い合わせが多いそうですが、国内外で反応は違いますか。

川﨑 実はこのとき、日本からの応募は僕らだけだったようです。世界中から約7000件 応募があるにもかかわらず日本からは他に応募がなかったと教えてもらい、日本と世界が見ている方向のギャップを感じました。

川崎さん

川﨑 日本はファッション専門学校の教科書が充実していて、型紙やデザインにまつわる精密な技術の蓄積があります。片や、ロンドンやオランダは、スキル に関する教育はもちろんですが、社会問題やテクノロジーに関する教育へと完全に舵を切りました。特に、London College of Fashionでは、サステナビリティについて学ぶコースや研究拠点があります。ファッションの面白さと持続可能性との間にどのような関係があるか、日本のデザイナーの間ではあまりピンときていないところがあると思っています。日本でも教育機関でファッションと環境問題、先端技術応用をリンクさせた実践を遂行できる新しいタイプのデザイナーが増加していくことを期待しています。また、そのような実践を研究や教育のプログラムやカリキュラムとしてデザインできる人材が必要です。
また、「サステナビリティを考慮したファッション」と聞くと「スローファッション」が想起されやすいかと思いますが、「スローファッション=買うのを我慢する 」というようにストイックになる傾向が見受けられます。ですが、我慢だけではファッションの楽しさが失われてしまうんですよね。「サステナブルなデザインで面白いことができる 」と、システムの再設計と同じプライオリティで、新たな表現の可能性をプッシュしていくことで、日本でも今後面白い動きが出てくると思います。

――環境配慮と経済の両立は難しいという議論がありますが、川﨑さんが制作する洋服では両立可能とお考えですか。

川﨑 難しい質問です(笑)。世界全体で見ると衣服の需要は人口増加により増えていますが、衣服の使用率は年々下がっているんです。この状態は「ファッション・パラドックス」と呼ばれています。労働問題や素材調達の点からも、現在の衣服の価格は、適正価格より安すぎるのではないでしょうか。これからは、しっかりした付加価値を提供し、環境問題にも配慮しながら適正な価値に設定していくことが必要です。

しかし、「ファッションの産業システムを全て止めてしまえ」ということにはできないですし、価格が高すぎても仕方ない。ファッションは現状、大量生産、大量消費を前提とした産業なので、例えば1着だけつくるといったことが難しく、300着のような大きなロットでないと対応できません。少量を受注生産できれば、在庫を減らすことに繋がるので環境問題への良いソリューションになります。ですが、個別固有化した受注生産のデザインを、どうデジタルを使って工場と連携するのかなど、システムの確立はまだこれからです。

それに、我々が3DやAIについて語ったとしても、製造現場が即座にそういった最新技術に対応するのは難しい。バイオテクノロジーやAIなどを使えば、デザインは面白いものをつくれますが、それを実装しようとすると、いろいろな障壁が生じてしまうんです。例えばロボットはプラスチックや鉄のような硬いものならコントロールできますが、布は柔らかいのでイメージ通りに縫うことが難しく、人間の手が必要です。ミシンの形や構造は、ジョン万次郎の時代から変わらないんですよね。製造技術とのすり合わせは、我々が今最もフォーカスしなければいけないところです。

川崎さん

――自分にあうカスタマイズされた服が必要数だけつくれる社会は、いつ頃訪れるのでしょうか。

川﨑 「早く実現させるぞ!」と思っています。「サステナビリティ」という概念をみんなが自分ごと化できていない空気は、日本のみならず世界全体でもまだあるんですよ。そういったときに、「ファッションの楽しさ」が突破口を開くひとつの解決策になると考えています。ファッションの楽しさが自分らしさの表現であるとすれば、カスタマイゼーション・システムはそこに介入する予定があるのではないかと思っているんです。そのカスタマイゼーションで在庫を減らし最適化された数だけを消費することで、我慢するだけではなく楽しみながら廃棄を減らすことができます。そのために我々はデジタルの力を借り、みなさんがカスタマイズできるWebサービスを立ち上げるべく開発をしています。

さらに、すでにプロダクトをお持ちの企業や、大手メーカーと一緒に共同開発、共同研究をさせていただくことを通じて、廃棄が限りなく少ない衣服をより多くの人たちに手にとってもらうことができると考えています。最近、繊維専門商社の豊島株式会社がペットボトルをリサイクルして開発した素材「PBR ZERO」と、廃棄を最小限にするアルゴリズムを組合せて衣服を制作しました。また、東京のストリートブランド・ハトラとコラボレーションした作品「AUBIK」を、スイス・バーゼルの展覧会「Making Fashion Sense」で発表しました。

ハトラとの共作「AUBIK」 写真提供:Synflux

ハトラとの共作「AUBIK」 写真提供:Synflux

川﨑 自分が経営しているものがITベンチャー企業なのかファッションブランドなのか、はたまた研究のためのラボラトリーなのか、わからなくなるときがあります(笑)。ですが、ファッションデザイナーの役割も多様化する中で 、僕は誰とでも臆せず話せる性格なので、ハイブランドや企業、大学のみなさんとも楽しく、喧々諤々と議論できるポジショニングを生かして、これからもどんどん面白いことをしていきたいです。

TEXT:小林純子、PHOTO:伊藤 圭

川崎和也(かわさき・かずや)

スペキュラティヴ・ファッションデザイナー/デザインリサーチャー/Synflux主宰。
1991年生まれ。慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科エクスデザインプログラム修士課程修了(デザイン)、現在同後期博士課程。身体や衣服、素材にまつわる思索的な創造性を探求する実践を行う。主な受賞に、H&M財団グローバルチェンジアワード特別賞、文化庁メディア芸術祭アート部門審査委員会推薦作品選出、Dezeen Design Award Longlist、STARTS PRIZE、Wired Creative Hack Award、YouFab Global Creative Awardなど。編著書に『SPECULATIONS 人間中心主義のデザインをこえて』(BNN新社、2019)がある。

グラフィックレコーディングで叶える誰もが平等な議論。「ビジュアライズ」の力を探る

会議や議論の場で、意図したことがうまく伝わらない、言いたいことがあるけれどそれを口に出すことができない、勇気を出して口にしてもスルーされてしまった──誰しもそんな経験をしたことがあるのではないだろうか。

そうしたコミュニケーションのロスを解消し、議論を活性化させる手法として、今注目を集めているのがグラフィックレコーディングだ。議論の要点を可視化しながら、結論へと至るプロセスをビジュアライズしてまとめていくという手法は、日々のコミュニケーションに新しい形を生み出すものでもある。

議論の場でリアルタイムにまとめられていく手描きのグラフィックレコーディングが、現代社会で求められる理由とは? そしてこれからの可能性について、グラフィックレコーディングの国内第一人者、清水淳子さんに話を訊く。

紙に描き出すことで「平等」な関係性で議論が進んでいく

──グラフィックレコーディングは、完成したものを見る機会が多いだけに、単なる「まとめ」ととらえられてしまうことも多いと思います。例えばビジネスの会議の場で、リアルタイムで議論をビジュアライズしていくことによってどんな効果が得られるのでしょうか。

清水 大きく分けると2つあります。まず、リアルタイムで交わされた意見をグラフィックで描くことで、言葉だけでは見落としてしまうような複雑なものごとの関係性を残すことができます。すると参加者の考え方が柔軟になり、「全員でこういうテーマに向き合っていて、私たちは一緒に考える仲間だ」という意識が芽生えるのです。

もう1つの利点は、会議を終えた後に、単純な結論だけではなく、どんな試行錯誤やプロセスがあったのか、その全てがアーカイブとして残るということです。よく、会議に参加できなかった人から、「なぜこの意見に決まったの?」という疑問や異論が出ることがありますよね。でも、こうした経緯があって、これだけの議論が交わされて、この結論に至りましたということが全て可視化できていれば、納得もできますし、「ここは理解できるけど、ここの道筋は通ってないよね」というような建設的な意見も出てくると思います。

出典:『Graphic Recorder ―議論を可視化するグラフィックレコーディングの教科書』(2017,BNN新社)

出典:『Graphic Recorder ―議論を可視化するグラフィックレコーディングの教科書』(2017,BNN新社)

──会議の場におけるグラフィックレコーダーとしての役割とは、どのようなものだと考えますか?

清水 たとえば、本当に言いたいことがうまく伝わらない、誰か1人がしゃべりすぎている、議論が同じところをぐるぐる回る――それは良くない会議ですよね。それを改善するには、「どういう描き方をするか」ではなく、「どこに紙や板を置いて参加者に見せるか」「どのタイミングで描き始めるか」といった、空間と時間をあわせて設計することが重要になります。紙の中の絵の上手さよりも、空間の中で、どのタイミングで描いて見せるか?ということがとても大きく関係しているように思います。 つまり素晴らしい絵で導く、というよりは、参加者の思考をサポートする場をつくる役割を担っている。このような捉え方が、ビジュアルランゲージ(視覚言語)では大事なのではないかと思っています。

清水淳子さん

──発言者の影響力や声の大きさに左右されることなく、多様な意見をフラットに俎上に乗せて健全な議論を進めることができるのも、グラフィックレコーディングの利点なんですね。

清水 面と向かっていると、あの人は偉い人だから特に意見を尊重しないといけないとか、無意識に感じてしまうバイアスも、グラフィックに変換することで、一旦紙の上でフラットにできます。多様性を尊重する世の中ではありますが、現実社会ではやはり関係性に歪みがあることは否定できない。でも、紙の上では理想的な「平等」という関係性を、擬似的にではあるけれど実現できるんですよね。例えば、すごく影響力のある部長Aさんと、そうでもない新入社員Bさんがいて、それぞれの発言を、名前を書かずに紙の上に落とし込んでいく。すると、後々それを見ながら、「ここは変だよね」「それ、部長Aさんの意見だよ」みたいなやりとりが起こっても、険悪にならず、議論を進めていくことができます。

──グラフィックレコーディングに必要なのは、絵を上手く描くことよりも、参加している場の議論をしっかり観察し、編集していくという作業だということですか?

清水 例えば感性豊かな有名な小説家が書いた小説と、新卒の社員が書いた議事録──どちらも見た目は文章です。ですが、もしも新卒の社員が会議の中で、突然小説のように感性を軸に会議のストーリーを書き始めたら、いくらその内容が素晴らしくても誰もが戸惑いますよね。それと同じで、芸術的なゴッホのひまわりの絵と、夏休みの宿題のひまわりの観察の絵──同様にどちらも見た目はひまわりの絵ですが、担っている役割が全く違います。

私は、グラフィックレコーディングは個人の感性を情熱的に表現するための手法ではなくて、その場にある情報を冷静に整理することでプロジェクトをスムーズにするための手法だと考えています。なので、自分の感性を前面に押し出すスキルよりは、一歩引いて観察できるスキルが重要かもしれません。

ただ、仮にその場の議論が情熱的だったら、情熱的なグラフィックレコーディングにする必要はあるので、感性が全くいらない訳ではないのがややこしく、そして面白いところですね。

「AはBの2倍」という文字だけでは、何が「2倍」なのかわからない

──そもそも清水さんがグラフィックレコーディングを始めたきっかけを教えてください。

清水 多摩美術大学の情報デザイン学科1年生のとき、原田泰先生というビジュアライズのプロフェッショナルの授業を受けました。そこで、たとえば「AはBの2倍である」という言葉があったときに、「それをビジュアルで記録してみようとすると、何が2倍なのかという疑問が湧き出てくるでしょう?」と言われて。確かに「2倍」という言葉だけでは、それが長さなのか、重さなのか、面積なのかがわからない。でも絵に描きおこそうとすると、足りない情報を集める必要が出てきます。そうすると自分できちんと考えるようになるから「そのくせをつけながら4年間過ごしてみると面白いですよ」と。それを実践して、気づいたら90分の授業を、全部絵で描けるようになっていたんです。

──そこから、グラフィックレコーディングにたどり着くまでには、どういう経緯があったのでしょう。

清水 実は、社会に出てからしばらくは、絵に描いて記録するのは、なんとなく大人として恥ずかしいことなんじゃないかと思っていたんです。文字で理解できない、話に追いつけない人が使う、ちょっと劣ったコミュニケーションなのではないかと。

あるとき、私がデザイナーとして働いていた会社で、いろいろな人が参加する会議の議論がうまく進んでいかないということがありました。デザイナーは私ひとりだったのですが、ここで議論がまとまらないまま「あとはよろしく」と言われて困るのは私自身です。そこで、自分の身を守るためにも、この会議でちゃんと話し合うべきだと思ったんですね。だけど、その想いをそのまま言葉にしてしまうと角が立つし、自分自身、言葉で伝えることがそれほど得意ではなかったので、ホワイトボードに今起きていることの図解を描いて課題を共有し、それを伝えるようにしたら、すごくその場がマイルドになったんです。

出典:『Graphic Recorder ―議論を可視化するグラフィックレコーディングの教科書』(2017,BNN新社)

出典:『Graphic Recorder ―議論を可視化するグラフィックレコーディングの教科書』(2017,BNN新社)

同じ時期に、勉強会に参加することがあったのですが、私はそこで何を学んだか、何が話されていたかを、絵を使ってひたすらノートにとっていて。そのときのノートを後でブログにアップしたら、イベントに参加していた人たちの間で話題になったのです。

そんな経験が重なって、ノートに絵や図を描いてまとめるとか、会議でリアルタイムに議論をビジュアル化していくという作業には、結局どんな効果があるのか、もっと探求していきたくなったのです。そしてそれは、閉じた空間に被験者を呼んで、何か描いてみる……という研究のような方法よりも、自分が過ごしている東京という街の中で、この行為を必要としている人たちから依頼を受けて、オープンな場でやってみるほうがいいと思いました。そこで、この行為に「Tokyo Graphic Recorder」と名前をつけて、活動し始めるようになりました。

「社会課題に対して自分が持っているスキルをどう使いたいか」という視点

──グラフィックレコーディングをはじめとして、物事をビジュアライズしてまとめるという手法はどんどん広まっていると感じます。その需要の高まりにはどんな背景があると思いますか?

清水 個人的にはテクノロジーの進化があると思います。これまで自分で描いた絵やデザインしたビジュアルを広めるには、何かの本に載せてもらうとか、自分でフライヤーを作って配るとか、そうした手段しかなかったんですよね。もしくは、ビル一面に自分の絵を貼るにしても、巨大なグラフィックをつくる機材や技術を持っていて、金銭的に余裕のある人にしかできない。メディアの力というものを、特別な人しか使えなかった時代が長く続いていたのです。

それがスマートフォンの登場以後は、誰もがその場で描いたものを、すぐに撮影して、SNSで無料で世界に向けて発信することができるようになりました。そうした情報環境で、誰もが「私にも『伝えられる』のでは」と思えるようになったことが大きな要因だと思います。今まで、たぶんみんな「伝えたい」という思いはあるけど、「手段」を持っていなかった。スマートフォン とSNSの普及でそのハードルがなくなったことで、私も含め抑え込んでいた「伝えたい気持ち」が爆発している時代のようにも感じますね。

それはすごく豊かで自由な時代だと考えることもできますが、フェイクニュースやデマが出回りやすくなったという部分には少し懸念もしています。私たちが育った90年代は、何かしらの試験を通過した一部の人だけが広く情報を発信できる立場にいました。だからそこまで情報の品質を毎回疑うこともなく生きてこられたけれど、今は悪気があってもなくても、怪しい話や真偽が曖昧なままの情報を広めることができてしまいます。そうした意味では、受け取り側の良質な情報を嗅ぎ分ける力がすごく試されている時代でもあると思います。

清水淳子さん

――現在の日本では、グラフィックレコーディングはどう理解されている面が強いと思われますか?

清水 行き詰まった社会的な課題に対して今までできなかった対話を促すような使い方が増えている一方、まだ、PRの一手法として、「バズを起こせる」「広告に使える」といった解釈だけにとどまってしまうもったいない部分があると思っています。また、終身雇用が崩れて複業時代になったと言われている今、手軽なマネタイズの手法ととらえられる危うさもありそうです。

たとえば、世界各国でグラフィックレコーディングが発生した背景を見ると、アメリカでは、1970年頃から、まちづくりをするときにさまざまな人種の人と対話するために、共通言語としてビジュアルランゲージを使ったと言われています。というように、同じ手法でも発生の背景でビジュアライズの持つ意味合いは変わってくるのです。社会にある課題をグラフィッカーがどう描くかによって、その国にとってのビジュアルランゲージの姿が変化するのではないかと思っています。

そういった、社会に根ざしたビジュアルの「文脈」について、もっと対話が増えるといいなと思います。ただそれは、「自分にとっての課題」を解決したいのか、あるいはもっと広い「社会にとっての課題」を解決したいのかというような、公共性への視点の有無――つまり、個々人が、自分の住む地域が持つ社会課題にどれくらい関心を寄せているかによるので、私がここで何かを提示したからといってみんなの考えがガラッと変わるようなことはないんですよね。「社会課題に対して自分が持っているスキルをどう使いたいか」ということを考える人が増えると、今以上に、もっと私たちの文化になるような、深く豊かな意味が生まれてくると思っています。

出典:『Graphic Recorder ―議論を可視化するグラフィックレコーディングの教科書』(2017,BNN新社)

出典:『Graphic Recorder ―議論を可視化するグラフィックレコーディングの教科書』(2017,BNN新社)

AIとビジュアライズの共存に必要なこと

──先ほど、ビジュアライズの需要とテクノロジーの関係についてお話しいただきましたが、テクノロジーとグラフィックレコーディングは今後どのように結びついていくと思われますか。

清水 たとえば今しゃべった音声を録音して、動詞や形容詞を認識し、その前後関係性も含めて自動的に解析していくことができれば、AIは絵として可視化することもできると思います。そうすると、議論の聞き逃しがなくなるかもしれません。やはり人間が描いていく上で一番弱いのは数字的なデータや、正確な地名などです。そこをAIが補完すれば、抜け漏れのない議事録として残していけるようになると思います。

他には、たとえば会議室ごとにグラフィックレコーディング用のボードを置いて、全ての会議を可視化していくと、「良い会議/悪い会議」の法則が見えてくるかもしれません。こういうタイミングでこういう発言があるとブレイクスルーにつながるとか、形容詞がたくさん出てくる会議では、エモーショナルな商品が生まれやすいとか。そんな分析ができるようになると面白いと思いますね。

ただ、怖いのは、参加している人たちが「これは素晴らしい人工知能による優れたグラフィックレコーディングだから、これこそが我々の真の議論の姿なんだ」と盲信し、思考停止を引き起こしてしまうことです。たとえば、そこに「社長の発言は1.5倍のサイズで描きましょう」というように、権力者に有利になるアルゴリズムを入れれば、議論の操作ができてしまいますよね。もし、参加者が「僕の発言はなんだか文字が小さい」と感じたとしても、「人工知能がそれくらいの意見だと判断したのだろう……」と思って、何も違和感を口にできずに、シナリオ通りにそのまま進んでいく会議が生まれるのは恐ろしい。でも、人間の手描きのレコーディングなら、そこで「なぜ僕の発言は小さい扱いになっているんですか?」と自信を持って言いやすいと思います。

また、会議を可視化・分析した結果、「あの人はまったく発言していないからプロジェクトからはずそう」とか、「形容詞が多いとエモーショナルな会議になるなら、みんなで形容詞を使って話す練習をしよう」というような、画一的な判断材料になってしまったり、作為的に議論を進めるような方向に向かってしまうのも怖いと思います。

――先ほどの「受け取り側の力がすごく試されている時代」というお話に通じる部分ですね。

はい。話し合いの中で情報を共有する方法としてAIとの共存に期待する部分は大きいのですが、良い活用のためには、やはりAIの導き出す法則に引っ張られすぎないような人間の知恵や思考が必要だと思います。

TEXT:杉浦美恵、PHOTO:山﨑美津留

清水淳子(しみず・じゅんこ)

デザインリサーチャー / グラフィックレコーダー
1986生まれ。2009年 多摩美術大学情報デザイン学科卒業後 デザイナーに。2013年Tokyo Graphic Recorderとして活動開始。同年、UXデザイナーとしてYahoo! JAPAN入社。2017年 東京藝術大学美術研究科にて情報視覚言語に関しての研究を行う。著書に『Graphic Recorder ―議論を可視化するグラフィックレコーディングの教科書』(BNN新社)がある。現在、多摩美術大学情報デザイン学科専任講師としてメディアデザイン領域を担当。

『キャプテン・マーベル』とコラボ!女子学生向けAI活用コンテストでヒーロー誕生を後押し

2019年4月、映画『キャプテン・マーベル』の公開に合わせ、IBM UK & Irelandは女子学生向けのAI活用アイデアコンテスト“Girls Who Change the World”をマーベル・スタジオと共同開催しました。

『キャプテン・マーベル』はブリー・ラーソン演じる特殊部隊に所属する女性が主人公のヒーロー映画。ヒーロー映画の主人公はなぜか男性であることが多いですが、本来であれば女性ヒーローが活躍する映画がもっと多くてもおかしくありません。キャプテン・マーベルの超人的能力は男性ヒーローに引けを取らないどころか、男性以上の能力を備えていると描かれました。

“Girls Who Change the World”とは

“Girls Who Change the World”は、キャプテン・マーベルのように女子学生たちが世界を変え得る人材になるよう、STEM教育(Science(科学)、Technology(技術)、Engineering(工学)、Mathematics(数学)の教育分野の総称)によって「力を目覚めさせる」ことを目的として、IBM UK & IrelandとSTEM Learning、そしてマーベル・スタジオが開催したコンテストです。

11〜14歳の女子学生を対象としたこのコンテストには、200以上のチームから応募がありました。AIを活用した社会課題解決のアイデアが審査され、選考を通過した10チームがグランドファイナルに参加。審査員に自分たちのアイデアをプレゼンテーションしました。

200チームの頂点に立ったのは

視覚障害者の生活の質を改善するアプリ、難民が言語を学習するためのアプリなど、さまざまなアイデアが発表されるなか、優勝したのはチーム・アルテミス。彼女たちは、若者が心の健康を保つのを支援するバーチャルアシスタントアプリを、4人のメンバーで設計しました。優勝チームには『キャプテン・マーベル』の関連グッズやIBM本社訪問権などが贈られました。「IBMのラボに行くのが本当に楽しみです。一生に一度の機会なので!」と、チームのメンバーたちは興奮を隠せない様子でした。

参加者たちの「私にこんなことができるなんて思っていませんでした!」「みんなでステレオタイプに抗うことで、女性として勇気付けられました」というコメントは印象的です。テクノロジーの基礎を学ぶ機会が彼女たちの才能を刺激し、次世代のリーダーを育てるのです。

ジェンダー平等なSTEM教育が社会を変える

イングランドとウェールズ、北アイルランドで義務教育終了時に実施される全国統一試験GCSE(General Certificate of Secondary Education)において、コンピュータ関連科目を受験した生徒のうち女子学生はわずか20%しかいないというデータは、STEM教育の現状を表しています。この「コンピューター領域にいる女性が少ない」という傾向は、職場でも同様ですが、女子学生がSTEM教育に触れられる機会を増やさなければ、テクノロジー分野を担うのは男性ばかりになってしまいます。その結果、偏った視点から生まれるサービスばかり提供されるようになり、全ての人がそのメリットを享受できなくなる可能性があるのです。

IBM UK & Irelandのチーフ・マーケティング・オフィサーであるシモン・エドワードは「私たちは、このような状況を変える使命を担っています」と語っています。

性別に関わらず誰にでも平等に学習する機会が与えられ、専門スキルを習得した人が多様な視点から社会問題にアプローチすることで、私たちの生活はより快適で豊かなものになります。IBMが“Girls Who Change the World”を開催する背景には、真のジェンダー平等が実現された社会を形成したいという思いが込められているのです。

今回のコンテストに参加した女子たちは、キャプテン・マーベルのように自身の才能を開花させ、新技術を扱う能力を武器として、これからおおいに活躍してくれることでしょう!

photo:Getty Images

遺伝子解析技術を社会に還元。ジーンクエストが見据えるゲノムビジネスの未来

唾液を郵送すると、遺伝子解析により自分の体質や疾病リスクを知ることができる、そんなサービスが一般的になりつつある。

提供しているのは高橋祥子氏が代表取締役を務める「株式会社ジーンクエスト(以下:ジーンクエスト)」。2013年、高橋氏が東京大学大学院在籍中に起業した会社だ。国際的なプロジェクトによりヒトゲノムの全塩基配列(全ゲノム)の解読が完了したのが2003年。テクノロジーの発展とともに遺伝子解析は急速に進んでいるが、遺伝情報をめぐる法整備や、倫理的・社会的な議論、そしてゲノムに関する人々の理解が追いついていないのが現状だ。

高橋氏が大学の研究にとどまらずに起業した背景には、遺伝子解析をビジネスとすることで一人でも多くの人にゲノムに関する正しい知識を持ってほしいという思いもある。今後、間違いなく社会に浸透してくるであろう遺伝情報をどのように扱うべきか、また遺伝子解析が私たちの未来に何をもたらすのか、話を伺った。

自分の正確な遺伝情報を知る権利

――ジーンクエストが提供している遺伝子解析サービスで、どのようなことがわかるのですか?

高橋 弊社のサービスは、ヒトの全ゲノム32億個の塩基配列のうち約70万箇所の遺伝子多型を解析対象としています。解析キットを購入し唾液を送付していただくと、がんやアトピー性皮膚炎、骨粗鬆症などの疾患リスクや、アルコール耐性や記憶力といった体質に加え、自分の祖先がどこから来たのかについての約300項目の遺伝情報を知ることができます。欧米人のデータに基づく遺伝子関連の科学論文が多い中、主にアジア人を対象とした科学論文を情報の根拠として、日本人やアジア人向けの大規模遺伝子解析を行っているのが特徴です。

遺伝子と聞くと「確定論的に何でもわかる」と思われがちですが、全くそんなことはないんです。遺伝要因と、生活習慣や食生活といった環境要因の両方が寄与して今の自分があります。例えば肺ガンは喫煙という環境要因の影響が大きいと言われていて、遺伝的にリスクが高くても絶対に発症するというわけではありません。自分の遺伝的にリスクが高い項目は何なのかをチェックし、その予防法を実践していただくための情報となればと考えています。

――遺伝的にリスクが高かったとしても生活習慣や食生活を見直すことで予防できるのですね。

高橋 もちろん、特定の遺伝子を持っていると発症することが決まっている病気もあります。そういった遺伝性疾患の情報を提供することも技術的には可能なんですが、その情報を提供することは医療行為になってしまうので、医療機関ではない弊社の個人向けサービスでは扱っていません。

こうした遺伝性疾患に関する情報を医療行為とみなす国もあれば、情報を個人に返さないほうが個人の権利を侵害しているとする、米国のような個人主義に基づく考え方の国もあります。自分の努力で変えられる余地がある情報は前向きになれますが、遺伝子で100%発症してしまう疾患についての遺伝情報をどう扱うべきか、日本を含め世界的にまだまだコンセンサスがない状態です。

高橋祥子氏

――高橋さんとしては、本人が知りたいと望めば遺伝性疾患に関する情報も与えるべきとお考えですか?

高橋 私は、提供するべきだと思っています。ゲノムの解析技術はどんどん発展しているので、これから先、「この情報にアクセスしてはダメ」というデータの封じ込めはできなくなってくると思っています。近い将来、自分で低コストで情報を得ることができるようになると、「その情報は知ってはいけません」といったルールですべてを統制できない状況が訪れるだろうと思っています。

遺伝子解析の未来を俯瞰すると、個人が正しい自分の情報にアクセスできる環境を整えていく方向に舵を切るべきです。例えば、遺伝性疾患や難病についての遺伝情報にも、医療機関を通じてであればアクセスできるとか、その後のカウンセリングやフォローができる体制をつくるといった、技術を前向きに活用するための議論が必要だと考えています。

遺伝子解析の技術を社会に還元するためのビジネス

――高橋さんは、大学院在籍中にジーンクエストを起業していますが、大学院の研究室だけではできないことがあったのでしょうか?

高橋 もちろん研究は可能なのですが、多くの大学で行われているゲノム研究の取り組みは基本的に、被験者を募集して、本人には情報を伝えることなく、学術的に活用します。私はそれよりも、遺伝情報の提供に協力していただく代わりに、疾病予防というメリットのあるかたちで個人の方にお返ししたほうがいいのでは、と考えたんです。さらに、そうやって遺伝子に関する興味を持ってもらう人を増やすことで、「遺伝情報を知ることが良いか悪いか」という議論をできる雰囲気が醸成されていくのではと思っています。

遺伝子解析においては、社会を広く巻き込んでいくことが必要です。それは、物理的に多くの人を巻き込むという話と、資本を巻き込む話と、両方あります。ゲノムには数十万人のデータが集まって初めて解読できる情報も多いので、数として多くの人の助けが必要です。私が起業したのも、自分がやりたいことを達成する手段として「起業」という選択肢が、ロジカルに考えて最適だったからです。

高橋祥子氏

私は、生命の謎を解き明かすことが、社会問題を解決することに繋がると思っています。研究、サイエンスをやりながら、その成果を社会に還元する。それが広がれば広がるほど、サイエンスが社会問題を解決する可能性が高くなる、という相乗効果を期待しています。

社会が追いつけないスピードで進化する遺伝子分野の研究

――遺伝情報は、生命倫理の観点から、ビジネスというフィールドやインターネットのような新技術と同じ俎上に載せて語るのは難しいようにも感じるのですが、実際どうなんでしょうか?

高橋 それは偏見というか、固定観念だと思います。ゲノムに関する教育がすすんでいないために、誤解している方が本当に多いのです。例えば、遺伝子解析結果を見て「私の遺伝子は良いの? 悪いの?」と聞かれることがあるのですが、良いとか悪いとかそういう話ではないんです。弊社が提供するサービスにおいても、全項目の疾患リスクが低い人もいませんし、逆に全てのリスクが高い人もいません。ゲノムを扱っていると、本当に一人ひとりが違っていて、「人間の多様性とはこういうことなのか」と実感します。遺伝子においても、全員が違っているからこそ価値があります。

そもそもヒトゲノムが解読されたのは2003年のことなので、それ以前に義務教育を受けた方の教科書にはゲノムについての記載がありません。だから、その後に学ぶ機会がない限り、知らなくて当然です。時代の変化に教育が追いついていないんだと思います。

高橋祥子氏

――なるほど。ゲノムについての教育を受けていないから、誤解を生んでいるのですね。

高橋 例えば、自分の命を守る行動などは遺伝子にその情報が組み込まれているので、誰に習わなくてもできるものです。逆に、遺伝子に入っていない情報というのは、時代によって変わる最新情報なんです。だから、遺伝子の変化より早く変化する最新情報については、教育で補っていく必要があるはずです。そう考えると、現在のような教育が時代の変化に追いついていない状態はパラドックスというか……。教科書を作る仕組みや体制から考えていかなければならないのかもしれませんね。

遺伝情報の利用に必要な「力」

――保険会社が遺伝情報を利用できるのか、幼児教育に子どもの遺伝子解析を活用すべきか、といったような各分野での遺伝情報の扱いに関する議論もあります。

高橋 遺伝情報は自分の力では変えようがないので、変えられないことについて不利益を被ることは差別の定義に当てはまると私は考えます。現状、日本では、保険会社は遺伝情報や家族の病歴を保険加入時の審査に利用していません。遺伝情報に基づいて自分が発症しやすいとされる疾患の保険にだけ加入したり、逆に高リスク者を保険会社が謝絶するようなことが起きると、現在の保険制度が崩壊する可能性もあります。子どもの教育のために遺伝子を調べるのも、子どもの才能を伸ばすことが目的であれば、私は良いと思います。けれど、その子の才能を閉ざしてしまうような利用のされ方であってはなりません。

遺伝情報は使い方ひとつで、人を豊かにするためにも、差別のためにも使えます。今は、遺伝情報を何らかの形で活用するべきだけど、どう使ったらいいかわからない、といった試行錯誤の状態なんだと思います。

――遺伝情報そのものよりも、その使い方が問題なのですね

高橋 そこには想像力が必要なのだと思います。よく「人の遺伝子には性善説的な性質があるのか、性悪説的な性質があるのか」と聞かれますが、どちらもあるんです。その時の環境や状況によって、性善説、性悪説のどちらかが引き出されます。例えば包丁を、食を豊かにするために使うのか、傷つけるために使ってしまうのかは、その人を取り巻く状況が作っている話であって、遺伝子もそれを良い方向に使える状況や環境を作らなければならないと思っています。

高橋祥子氏

遺伝子解析が照らす未来図

――遺伝子解析が進んでいくことで、今後、特に大きく変化する分野はどこでしょうか?

高橋 やはり医療分野での活用が、最も緊急性が高いと思います。これまでは、肺がんの場合は肺というように、臓器ごとにがんを区別して抗がん剤を使う治療でした。がんは遺伝子の変異なので、今後遺伝子解析がすすめば、どの遺伝子が変異しているのかを調べて、その人の遺伝子に合わせた治療をしていく方法がスタンダードになっていくと考えられます。がんだけではなく他の疾患も、遺伝子に合わせた「オーダーメイド医療」や「ゲノム創薬」といった、最適な治療法を選択できるようになるはずです。医療以外の運動、食事、栄養、ストレス、美容などの様々なヘルスケアの領域においても、その人の遺伝子に合わせたソリューションの提供が可能になるだろうと思います。

――高橋さんは代表取締役を務めていますが、今でもご自身で研究は続けているのですか?

高橋 今は自社で行っている研究チームのマネジメントをしている形です。最近のバイオインフォマティクス(生命情報科学)と呼ばれる領域は、実際に手を動かして実験を行うのではなく、パソコン上のデータを駆使して解析する研究でもあるんです。そもそも生命科学がここまで進歩したのは、物理測定機器やコンピューターが発展したおかげで、ゲノムをデータ化することができたという経緯があります。今後もますます、遺伝子解析は、テクノロジーや物理学、情報学などの他の領域との融合が進んでいくだろうと思います。

ヒトゲノムが解読される前は、全ゲノムが解読されればヒトの体の全てがわかると期待されていました。しかし、2003年にゲノム解読が完了してわかったのは、もっと広い海があって、その中のたった数%が解読できたに過ぎなかったということです。我々は大規模なデータを扱い、遺伝子研究を多角的に進めています。データ分析技術の発展により、これまでにないスピードで今までの予想や仮説を超える発見をしていく可能性があります。生命のすべてを解明したいという私の挑戦もこれからです。

高橋祥子氏

TEXT: 小林純子、PHOTO: 山﨑美津留

高橋祥子(たかはし・しょうこ)
株式会社ジーンクエスト代表取締役 株式会社ユーグレナ執行役員バイオインフォマティクス事業担当

1988年大阪府生まれ。2013年6月東京大学大学院農学生命科学研究科博士課程在籍中に遺伝子解析の研究を推進し、正しい活用を広めることを目指す株式会社ジーンクエストを起業。2015年3月博士号取得。2018年4月株式会社ユーグレナ執行役員バイオインフォマティクス事業担当に就任。生活習慣病など疾患のリスクや体質の特徴など約300項目以上に及ぶ遺伝子を調べ、病気や体質に関係する遺伝子をチェックできる遺伝子解析サービスを展開。経済産業省「第二回日本ベンチャー大賞」経済産業大臣賞(女性起業家賞)受賞。著書に『ゲノム解析は「私」の世界をどう変えるのか?』がある。

温暖化や海面上昇など、気候変動に最も脆弱なのは零細な沿岸漁業や農業だと言われる。2019年9月、IPCC(国連気候変動に関する政府間パネル)は、「温暖化は想定以上の速さで進み、2100年には深刻な事態になる」と警告する特別報告書を発表した。
上智大学大学院環境学研究科のあん・まくどなるど教授は、約30年間のフィールド・ワークを通じて、農漁村の生活や変貌をつぶさに観察してきた。とりわけ注目するのは里山と里海。「人間が管理しながら自然と共生する農漁村の生き方は、持続可能な社会をつくるヒントになる」と言う。
しかし、その里山・里海も気候変動の影響からは免れない。上智大学は「アイランド・サステイナビリティ」をテーマに、同教授の主導のもと、マーシャル諸島共和国はじめ各国政府や大学と連携するプロジェクトをスタートさせた。
農漁村では高齢化や人口減少も進むが、同教授は「農業では新しいタイプのリーダーが登場し、沿岸漁業ではすばらしい漁労文化を維持している」と希望を捨てていない。世界を股に掛け活躍する同教授に、農漁業の活性化や気候変動への対応策について伺った。

異文化の国で交流を求めるなら、よそ者の自分から行動を起こす

――先生は1982年に初来日され、ずっと日本の農漁村でフィールドワークをしてこられました。なぜ農漁村の研究を人生のテーマにされたのでしょうか。

まくどなるど この道を歩むことになったのは、家庭教育のおかげだと思います。父親はカナダの開拓者の長男で、森の中の電気も水道もない小屋で育ちました。奨学金で大学に進学して栄養学の学者になり、私たち子どもには、好奇心を大切にし、未知の世界に挑戦するよう、いつも言っていたのです。
異文化の国で交流を求めるなら、待つのではなく、よそ者の自分から行動を起こす責任があります。私は子どもの頃父親の仕事の関係でスウェーデンに住み、中学1年生になる前にカナダに帰国しました。15歳の時、カナダ初のAFS交換留学生として急遽私が選ばれた時、父は「その国の文化に合わせる努力をしなさい。行き詰まっても、その国のせいにしてはいけない」と言って、送り出してくれました。
交換留学生に選ばれてから出発まで2週間の準備期間しかなかったので、ほとんど何の知識もないまま来日し、大阪・河内長野の私立高校に留学しました。食事も風呂もトイレも違う。日本語が分からず看板も読めないので、最初はとても怖かったことを覚えています。
帰国して大学生となった1988年、今度は熊本大学に留学する機会を得て政治学を学びました。しかし、政治についてはあまりパッションが湧きませんでした。そんな時に、親友の両親の紹介で熊本・小川町のイグサ農家に10日間滞在しました。そこで日本の農家の暮らしや農作業を体験するうちに、農家のおばあちゃんの温かい気配りに感激し、日本の田舎に魅せられてもっと深く知りたいと思うようになったのです。

アン・マクドナルド氏

バブル期に日本社会の激変ぶりを見て、危うさを予感

――1980年代は日本がバブル経済に向かっていた時期です。日本の生活や文化の変貌をどのように感じましたか。

まくどなるど 交換留学で1982年に初来日し、83年の春にカナダに戻りましたが、再び日本に戻った88年までの5年間で、ライフスタイルがすさまじく変化したことに驚きました。82年の食文化は和食が中心だったのに、88年には欧米の食品があふれていました。経済学者は「それいけどんどん」の経済発展を称賛し、外国人留学生は、「日本企業の成功の秘密を知りたい」と経済学が大変な人気でした。
しかし私は逆に、こんなスピードでいいのかと危うさを感じました。社会を支えていた第1次産業が衰退し、日本の伝統を捨てて欧米のものを猛スピードで無差別に導入する。ギャップの大きさに危惧を抱いていた時、柳田國男の本に出会い、鍛冶屋、竹細工師、桶屋などのオーラル・ヒストリー(口述歴史)に惹かれました。
日本は欧米化によって失うものと、得るもののトレードオフを真剣に考えずに突き進みました。現在の途上国も、日本がたどったようにこれから負の部分のある道を歩むに違いありません。何百年、何千年かかって築き上げてきた文化を捨てないようにしないといけない。日本にはプラスとマイナスの両面で学ぶものがあると思います。

里山の風景

漁村には外国人でもすぐ入れるが、農村は慎重な準備が必要

――先生は長年日本の最北端から最南端まで全国でフィールドワークをされてきましたが、農村と漁村の人々の気質や文化の違いを感じることはありますか。

まくどなるど 大きな違いがあります。漁村には比較的外国人は入りやすい。漁師は狩猟民族というか、「板子1枚下は地獄」というのが舟乗り稼業(かぎょう)です。判断が早いので、漁村に入るのは最初の3秒が勝負です。「日本人は農耕民族」と言いますが、その場合、漁民は主流の外に暮らす「よそ者」です。外国人の私も「よそ者」。通じるものがあるのです。

アン・マクドナルド氏

まくどなるど 一方、農村はじっくり時間をかけて、地域の人間関係や慣習をよく勉強してから入らなければいけません。宮城県大崎市松山町で8年間研究したときのことを思い出します。最初の1年間は畑を借りて静かに暮らし、2年目はぼちぼち勉強会にメンバーとして入ってもらい、3年目になってようやく人々が声をかけてくれるようになりました。中には2年目から声をかけてくれた人もいましたが、3年以上かかった人もいました。ひょっとしたら、向こうも私をどこまで地域社会に受け入れたらいいか試していたのではないでしょうか。でも、いったん受け入れてくれたら、とても温かく信頼できる仲間として、人間味あふれる生涯の友達となっていきました。

佐渡で農村と漁村の両方を調べたことがあります。リンゴとナシ農家の言葉はとにかく長く、結論がどこにたどり着くのか分かりにくい。片や漁師の言葉は短くて「おい、魚を分けてやるから、入れ物を持ってこい」で分かりやすい。漁に同行している間、ずっと無言だった漁師もいます。言葉、表現、コミュニケーションの面でも、農村と漁村の人の違いを感じました。

ある国際会議で、日本のお役人の話がやたら婉曲的で回りくどく長いので、他国代表の顔を見ていたら、何を言おうとしているのかあまり通じていないように見受けられました。内容はとても大事なことを主張しているのに、婉曲的に言うと英語ではなかなか通じにくいところがあるのです。そこで私は思わず、「皆さん、国際舞台で戦うなら、漁師の人たちの単純明快な言葉を見習い、もっと短く簡潔に言いましょう」と冗談っぽく言ったことがあります。

農業経営が大規模化すると、農業は強くなるが農村は死ぬ

――地方は人口減少や高齢化が進み、活力維持が課題です。現状をどう見ておられますか。

まくどなるど 地方の衰退は1980年代のバブル経済期に既に始まっていました。90年代の初めには、中山間地のシンポジウムで「子どもがいなくなり、老人ばかりでどうすべきか」という切実な声が上がっていました。
これは私が中山間地域に住んでいたからだと思いますが、当時すでに過疎化、高齢化、農業の担い手不足が重い課題として存在していたのです。バブル崩壊前までの日本経済は絶好調に見えましたが、第一次産業を支えてくれている農村や漁村を訪れても、高度成長を成し遂げた日本の輝きがあまり感じられませんでした。誤解を恐れずに言えば、戦後の隠れたコストは農村や漁村にツケが回されているように感じました。こういった状況がしっかり認識されないまま時代が流れていくと、農村も漁村もそのうち消滅してしまうのではないかと私は危機感さえ感じていました。

米国や私の故郷のカナダでは70年代、家族経営の農場がアグリビジネスに置き換わっていく時代でした。小規模経営の農場はどこも倒産寸前。米国アイオワ州の田舎で獣医を務めた伯父の所で、ひと夏を過ごしたことがあります。そこでは畜産農家は牛や豚が病気になっても獣医を呼ぶお金がないので、まず自分で治そうとする。死にそうになってから、あわてて獣医を呼ぶ。代金は畑で作ったトウモロコシ、という状態でした。
カナダでは、叔父が規模拡大の波に乗れずに牧場を手放してしまったのを今でも覚えています。
このように米国でもカナダでも小規模経営が崩壊し、大規模化が進んでいきました。大規模化で農業という産業は強くなるけれども、農村は死んでしまう。つまり農業と農村は別物になったのです。
90年代の日本では、農水省の中に規模拡大を目指す米国派と、小規模でも持続可能でエコ重視の農業を目指す欧州派があって、両者の間で論争があり今に続いているように感じます。

アン・マクドナルド氏

行政は農業・漁業への外国人の受け入れにもっと支援を

――先生ご自身は、どのような農業政策が望ましいとお考えですか。

まくどなるど 有機農業をやっている私の知人が全国にいますが、彼らは「日本農業の強みは、限られた面積でいかに高品質な作物を作り上げていくかにある」と言います。米国型で規模拡大していくと、日本の強みは失われるように思います。

こうした中、90年代後半から注目すべき動きが出てきました。環境に配慮した無農薬でオーガニックの農業や、農協に出荷しない農業に取り組む人々が登場してきたのです。
最初にオーガニックに取り組んだのは、環境破壊を止めようという信念を持った“哲学者”たちでした。それを持続可能にするためには、ブランド化してお金を得ていくことが大事だという考え方が広がり、一匹狼だった人々は今では新しい運動のリーダーになっています。こうした人たちをもっと農業政策に生かしたらいいと思います。
岩手県遠野市で「多田自然農場」を経営する多田克彦さんは、土壌作りや肥料作りから栽培まで、江戸時代の農書を参考にして取り組んでいます。自然と共生した先人の知恵を大事にしているのです。米国や欧州に行って学び、農作物を海外に輸出し、発信力もある。私はこういう人を農林水産大臣に任命すれば、日本の農業の未来はすごく変わると思います。

最近は外国人も農業に参加しています。静岡では韓国人と日本人の夫婦がお茶を有機栽培して新しい商品開発を行い、フィリピンに進出して農園経営を拡大しています。少子化で地元育ちの人が減ることばかり心配するのは後ろ向きです。農業の価値を知る外国人を受け入れて大事にすれば、国土保全につながります。日本人自身も明治時代以降、南米に出かけてコーヒー栽培などで成功したではありませんか。行政は持続可能な社会を目指すために、農業や漁業への外国人の受け入れをもっと支援するなどのソリューションも、もっと探ってほしいと思います。

アン・マクドナルド氏

里山・里海は自然界を考察し獲得した貴重な知識アセット

――ところで、先生は里山・里海について「自然を守り環境問題を解決する知恵として、世界で注目されている」と述べておられます。

まくどなるど 里山・里海は、自然保全や生物多様性の維持にとても重要です。その強みは動的管理(ダイナミック・マネジメント)にあります。長年、自然界の移り変わりを考察し、それに適応して獲得した貴重な知識アセットなのです。
例えば石川県の炭焼きは、原木のコナラを伐採した後、3~4年間木の手入れをします。切り株からは10~20本の芽が出てくるので、3~4本だけ残す芽かきをして、下草を刈ります。こうして木を育て、20~25年サイクルで林を利用するのです。枯れ枝を重ねておくと小動物のすみかになり、生物多様性の維持に役立ちます。
2010年に名古屋で「生物多様性条約第10回締約国会議(COP10)が開かれました。私は海洋生物の多様性を重視し、生物多様性条約事務局と一緒にいろいろ考え、せっかく日本で開催されるのだから、日本の優れた海洋文明、漁業文化を取りあげることにしました。そこで、何千年にもわたって北から南まで沿岸海域の資源を大事にしてきた日本の資源管理の仕組みやルール、里海の文化などを事例として、Sustainable Ocean Initiative(SOI)を立ち上げることを提案し、日本の環境省と農林水産省の賛同も得て、立ち上げ会合を開きました。このイニシアチブのおかげで、「省」や「国境」を超えて共に力を合わせ、発展途上国を支援する道が開かれたのです。

私は5~6年前からミクロネシア、カリブ海、ポリネシアの島国に行き、日本の里山・里海の思想を積極的に紹介しています。いずれも気候変動への脆弱性が高く、危機感を深めている国々です。
中でもミクロネシアのマーシャル諸島共和国政府とは共同プロジェクトを進めています。
その目的は、海洋生物多様性や資源管理等とともに、気候変動のフロントラインにいて脆弱性が高いマーシャル諸島の食糧供給や、栄養事情を安定・向上させることです。輸入への依存度を減らし、回復力のある資源管理を生み出していく。それを支える農政も同時に確立しようとしています。日本の伝統農法や現代のイノベーティブな科学技術を、マーシャル諸島の経済や文化・社会・歴史に配慮しつつ、どのような形で導入するか、マーシャル諸島の資源省とともに現場で探り、考えています。

アン・マクドナルド氏

気候変動が里山・里海の環境を急速に変えている

――9月に出たIPCCの特別報告書は「想定を超える温暖化・海面上昇により2100年には沿岸インフラが打撃を受け、10億人が危機を迎える」と予想しています。日本の里山・里海は大丈夫でしょうか。

まくどなるど 気候変動は急速に里山・里海の環境を変えています。例えば海女さんが潜る能登の海は、磯焼けがひどくて砂漠化し、海藻が生えなくなっています。これまではアワビなどの稚貝を放流して育て、いつそれを採取するかという資源管理のルールがあったのですが、今やそういう伝統的な里山・里海の知識だけでは事態をコントロールできなくなっています。海女さんの知識アセットと科学者の知識アセットを合わせて、どう対応するかを考えねばなりません。

マーシャル諸島の場合は、海面上昇によって住む土地が失われようとしています。先祖のお墓が水没するのは民族の精神にかかわる問題であり、移住すればいいという簡単な話ではありません。
1999年に、氷が解けて生活基盤を脅かされている北極圏のイヌイットを現地調査したことがあります。北極圏は無数の島々から成り立っており、温暖化は地球平均の5~6倍の速さで進んでいるので、こちらも海面上昇が深刻です。

日本でも漁港関係者が十数年前から、「いずれ日本海側では満潮時の海面上昇が問題になる。防波堤をどれぐらい高くしたらいいか」と議論しています。これに対し、漁師の妻たちからは「防波堤がかさ上げされると、夫が魚を漁船から陸に上げるのが困難になり、身体が心配だ」と懸念する声が出ています。日本の漁港は全国に3000カ所もあり、財政難で全部を造り直す余裕はないので、取捨選択する時代に移行せざるを得ないでしょう。

漁港の風景

米は品種改良で対応し、果物は栽培地を北上させる

――農業分野では、環境省の報告書が「2100年には温州ミカンの作付け適地がなくなり、コメの品質が劣化する」と述べています。

まくどなるど IPCC最初の報告書の執筆者である陽 捷行(みなみ・かつゆき)さんという、農水省の農業環境技術研究所長を務めた優れた研究者がいます。先見性のあった陽先生は2007年に、全国の農業試験場から気候変動に関するデータを集めて、研究発表会を開きました。その時、既にミカンとコメの話が出たのです。九州では降雨パターンが変わったために、主力製品の「ヒノヒカリ」という品種のコメが作れなくなり、代わりに「にこまる」という新品種を開発しました。

果物は温暖化に伴って栽培地を北上させる方法を取ります。青森県では早くも「孫の時代にはリンゴの代わりにミカンを作っているかもしれず、今とは違う教育をしなければいけない」という声が出ています。
ただ、リンゴからミカンへの移行期には収入が期待できません。補助金が欠かせませんが、税金なので国民全体の理解が必要になります。科学者や農業の現場では既に検討が始まっていますが、官庁の動きはいまひとつです。

アン・マクドナルド氏

島国の若手行政マンを招いて上智大学で教育し、母国に貢献してもらう

――「ローカルな視点からグローバルな問題解決を探る」というのが先生の基本的な姿勢だと思います。今後どのような活動や情報発信に取り組まれるのか、お聞かせください。

まくどなるど ここ5~6年は南の島国を中心に活動しており、脆弱性が高い漁業や農業の在り方を研究しています。日本も島国ですが、その認識が最近薄れているように思います。
日本が21世紀に地球のために貢献できることの1つとして、大陸ばかりに目を向けるのではなく、ぜひもっと南の島国に目を向け、アイランド・サステイナビリティのソリューションに取り組んでほしいと思います。上智大学は、環境研究所にそのためのユニットを発足させ、私がトップを務めています。島国の25~45歳の若手行政マンを招いて日本で勉強してもらい、母国に貢献してほしいと願っています。

アン・マクドナルド氏

TEXT:木代泰之、PHOTO:倉橋 正

あん・まくどなるど(Anne MCDONALD)

上智大学大学院地球環境学研究科 教授
高校、大学時代に日本に留学。日本各地の農漁村のフィールドワークを開始(現在も活動中)。1991年ブリティッシュ・コロンビア大学東洋学部日本語科卒、2年アメリカ・カナダ大学連合日本研究センター(旧スタンフォード大学日本研究所)研究課程終了。97年に県立宮城大学客員教授、2011年より現職。農業・漁業を基にした日本学、環境学、環境歴史学が専門。主な著作に『気候変動列島ウォッチ』(清水弘文堂書房)、『日本の農漁村とわたし』(同)など。

蛇口をひねれば清潔な水が手に入る国・日本に住む私たちは、「水はごく身近にあり、特に苦労することなく手に入るのが当たり前である」と錯覚しがちです。しかし今日、人口の増加による地下水位の低下などを背景として、水不足は世界的な問題となりつつあります。

ケニアにおける水資源問題

ケニアでは人口4千600万人のうち41%もの人が、池や浅井戸、川などの水源に頼っています。公共水道サービスプロバイダーは55ありますが、そのうち継続的な供給を提供しているのはわずか9つのみなのです。

従来、ケニアのような乾燥地域では、インフラへの投資により水不足に対処してきました。具体的には、より多くのボアホール(地面をボーリングし空けた穴)を掘削し、汲み上げる地下水の供給を増やすという方法です。しかし、ボアホールの維持は各地域に任せられているため、ボアホールの多くは設置後数年以内に故障し、そのまま放棄され使用されなくなります。そのうえ、公共水道サービスの管理者は設備の場所や状態、性能を正確に把握できず、適切な修理とメンテナンスを行えずにいました。

スマート・テクノロジーが水不足のためにできること

ケニアにおけるこうした問題を解決するため、IBMはパートナー企業と共同で、ケニア北部に水流をモニターするIoTネットワークを構築し、クラウドホスト型の水管理プラットフォームを開発しました。

このシステムはIoTセンサーによって地下水の消費と供給のパターンを割り出し、管理者にデータを提供します。管理者はこの情報をもとに、水の使用量、漏出、盗難の把握のほか、設備の破損や修理データの収集も行うことができます。また、給水所のデータベース、地質図、各地域内の管理体制や連絡先の詳細情報も、プラットフォームを通じて閲覧することができます。

さらに、IBMはボアホールの整備も行いました。ボアホールに障害が発生すると、水汲み場に設置された水流センサーから信号が自動的に送信され、修理・メンテナンスチームに通知されます。その結果、水汲み場は従来よりも長期間使用できるようになりました。

今ではこれらの取り組みが実を結び、3年未満で、約27万人の人々と約50万匹の家畜へ安全な水を提供できるようになったといいます。

この記事で紹介したのはケニアにおける事例ですが、水不足はアフリカやインドなどの乾燥地域だけでなく、アメリカやイギリス、そして私たちの暮らす日本でも深刻な問題となりつつあります。

近い将来訪れるであろう世界的な水不足に備えて、クラウドやIoT、そしてブロックチェーンなどのスマート・テクノロジーでなにができるのか――IBMはこれからも考え続けます。

photo:Getty Images