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いま、もっとも渇望されている「データ・サイエンティスト」その役割とは?

「情報化社会」という概念が広く使われ始めたのは、1990年代半ばのことだと言われています。
それから約30年――コンピューターやスマートフォン等が普及し、インターネットを中心としたネットワーク・インフラが整備されたことを受けて、情報は質・量の両面で大きな変化を遂げました。
加えて、近年のIoT(Internet of Things)やビッグデータ処理、AI(人工知能)といった新たな技術の進化により、社会における情報の位置付けは大きく見直されつつあります。

企業が熱烈に求める「データ・サイエンティスト」とは?

社会の高度な情報化に伴って、現在懸念されているのが、そうした変化を支える人材の圧倒的な不足です。

2019年3月に経済産業省が発表した「IT人材需給に関する調査」によれば、高度IT技術を支える人材は、2030年には最大で約80万人不足すると考えられています。
そんな中でも、データ活用やAIの導入に意欲的な企業からとりわけ熱烈に求められているのが、データ・サイエンティストと呼ばれるプロフェッショナルです。

ビジネスとデータをつなぐ包括的な視点

データ・サイエンティストとは、一言でいえば「データに基づく合理的な意思決定をサポートする」役割を担う職務です。

「データを扱う」という観点では、データ・アナリストや機械学習エンジニアという職業もあります。データ・アナリストは特定のデータの処理や分析を中心的に手掛けます。機械学習エンジニアは、AI技術の一つである機械学習を用いて大量のデータを処理し、適切なモデルを作成するのが主な役割です。

対してデータ・サイエンティストには、大量データからの情報抽出、抽出したデータの分析や予測モデルの作成、作成されたモデルを用いた意思決定の支援といった、包括的な領域での活躍が期待されています。このため、データ・サイエンティストを目指す人材には、数学やコンピューターサイエンス、データ解析等の知識はもとより、自らが扱うビジネスドメインに関する高度な理解、データを用いて現実の問題を解決する能力などが求められるのです。

優秀なデータ・サイエンティストを育てるために

データ・サイエンティストは比較的新しい職業です。アイ・ビー・エムでは2015年から、データ・サイエンティストの職種を設けており、その価値を実感してきました。さらに2017年からは、公式な業界団体であるThe Open Groupとデータ・サイエンティスト認定制度の確立に向けて 連携を始め、2018年末より、全地域の全社を対象として社内運用を開始しています。この認定制度は、IBM社内で認定を受ければ、The Open Groupとの連携により、業界水準と同レベルの認定が付与される仕組みになっています。

データ・サイエンティストを必要とする企業がこうした認定制度を設けることで、データ・サイエンティストの社会的認知度が向上するとともに、データ・サイエンティストを目指す人材への道標を示すことにもつながるでしょう。

ビッグデータ、AI、IoT――高度なIT技術により作り出された膨大なデータの海へと漕ぎ出す上で、その案内人となるデータ・サイエンティストは、まさに「なくてはならない存在」となるはずです。前述のような制度のもとで一人でも多くの優秀なデータ・サイエンティストが生まれ、育っていくことを切に願います。

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photo:Getty Images

今年2019年は、1969年にアポロ11号が人類史上初めて月面着陸に成功したあの日から数えて、ちょうど50年目に当たります。
ルイ・アームストロング船長が月面に降り立ったときに発した、「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍である」という有名な言葉は、誰もが一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。

一方、その大きな飛躍の陰に、4,000人を超えるIBMのエンジニアの活躍があったことはあまり広く知られていないかもしれません。しかし、当時フライトディレクターを務めていたジーン・クランツ氏が語ったように、IBMとIBMの提供するシステムがなければ、アポロ11号が月に着陸することはできなかったのです。

アポロ11号を支えたIBMのテクノロジー

アポロ計画に参加した4,000人のIBM社員の大半は、フェデラル・システム部門に所属するエンジニアで、宇宙船の打ち上げから地球への安全な帰還を実現するためのシステムとプログラムの開発に携わりました。アポロ計画で利用されたサターン・ロケットの誘導用飛行制御装置を開発したのもIBMのエンジニアたちです。NASAの有人宇宙飛行センターでは、多くの技術者が宇宙船の軌道を計算するための精密な分析をリアルタイムで行いました。さらに、アポロ計画にはIBMのメインフレームSystem/360が採用されていました。アポロ11号が月面に着陸し、安全に地球に帰還するための精密な軌道計算を行う上で、IBMのコンピューターとエンジニアたちが大いに活躍したのです。

また、当時冷蔵庫サイズであったIBM System/360相当の性能をもつコンピューターを宇宙空間での使用に耐えうるくらい頑丈にし、宇宙船に搭載可能なスーツケースサイズにまで縮小したのも、IBMがおさめた偉大な功績の一つといえるでしょう。

宇宙開発から日常生活まで

あれから50年、テクノロジーは我々の想像を遥かに超えて進化し、宇宙開発を取り巻く状況も大きく変化しました。

IBMはアポロ11号の月面着陸に先駆けること約30年前、1940年代の初期から宇宙開発に必要なスキルと技術を提供してきました。そして今もなお、宇宙空間で宇宙飛行士の作業を支援するAIコンパニオンロボット「CIMON®」など、新たなテクノロジーで宇宙開発を支え続けています。

世界初!宇宙で活躍するAIコンパニオン

さらに、アポロ11号を支えたIBMの技術力は宇宙開発だけでなく、現在では世界規模での気象予測や難病の治療薬開発支援など、私たちの暮らしをより良くするためにも応用されはじめています。

今年後半には利用可能に! 「革命的気象予報」で何が変わる?
AIと「爪センサー」がパーキンソン病治療を加速する

人類が自在に宇宙空間を旅することができるようになるまでには、まだ少し時間がかかるかもしれません。けれど、アームストロング船長が踏み出した小さな一歩から今日に至るまでの50年の軌跡の先に、我々人類を大いなる夢へといざなう道が続いているのは間違いありません。

photo:Getty Images

CIMON®, a registered trademark in Germany of Deutsches Zentrum fuer Luft- und Raumfahrt e.V., German Aerospace Center (DLR), stands for Crew Interactive MObile CompanioN and is a scientific project funded by DLR and the Federal Ministry for Economic Affairs and Energy (BMWi). Other product and service names might be trademarks of IBM Corporation or other companies.

「カタリバ」は、悩める10代の心のサードプレイス――ナナメの関係が切り拓く若者の可能性と未来

悩める10代が気軽に語り合い、やる気を育む「カタリバ」の活動が全国に広がっている。親や教師とのタテの関係でも友人同士のヨコの関係でもなく、利害関係のない「ナナメの関係」が特長だ。ゆるく語り合えて心の逃げ場ともなる「サードプレイス」を提唱し、さまざまな理由で適切な教育の機会を得られなかった10代に意欲の火を灯す。運営しているのは、認定NPO法人カタリバだ。
被災地への支援から始まった「コラボ・スクール」は、今や支援を受けた高校生たちが自立し、支援する側へと行動する「マイプロジェクト」にも発展している。
認定NPO法人カタリバ 代表理事の今村久美氏に、ナナメの関係が切り拓く10代の可能性と未来についてお話を伺った。

10代の成長を促す語りの場

――10代の子どもたちに新たな成長の機会を提供する認定NPO法人カタリバ(以下、カタリバ )を立ち上げられた経緯を、教えていただけますか。

今村 カタリバは2001年、私が大学生の時に立ち上げました。昨今、ダイバーシティという言葉があちこちで聞かれます。多様な価値が共存する社会を目指していく中で、教科書で学習する価値観とは異なる経験をしてきた人たちが教育現場にかかわることで、10代、特に高校生の意欲をもっと引き上げることができるのではないか、そういう思いでカタリバを設立しました。

――なぜ、そうした場が必要だと思われたのですか。

今村 大学時代のことですが、家庭が裕福で多くの教育機会を得られた人たちに出会いました。親の持つソーシャル・ネットワークによって、こんなにも子どもたちの経験が違ってしまうのかと思い知らされたのです。未来を自分で切り拓ける可能性は、家庭の経済状況や環境が与える教育によって左右されると感じました。そこで、どんな環境で生まれ育っても、意欲さえあれば未来に希望が持てる社会にしていきたいと強く思いました。

日本は社会全体を見ると、教育のレベルは高いです。大学で養成を受けた教員が日本中、離島にまで配置されている。そんな平等な教育環境がある国は世界にも例がないでしょう。
しかし、平等性はあっても、そこから突き抜けて成長していくには、家庭の所得が高くなくては難しい。アメリカのように過度なドロップアウトもほとんどなく、おおむね平等です。思春期にもっと能力を伸ばして突き抜けて行けるはずの子どもたちが、家庭環境によって制約を受けているのはもったいないと痛感しました。

今村久美氏

――そこで卒業を待たず在学中にNPOを立ち上げたのですね。

今村 私の実家は飛騨高山で土産物店を経営しています。今では地元高山のキャラクターにもなっている「さるぼぼ」は、私の父が起業して土産物として作りました。私は、近くでその様子を見ていました。仕事は自分で作り出していく。サラリーマンの家庭だったら、親が仕事をしている姿を見るのは難しかったでしょうが、私は親の仕事を見て育った。それは私にとって環境的な価値だったのかもしれません。

また2001年当時は就職氷河期で、特に女性が就職するのが大変な時代でした。
そこで気づいたのです。私にとって大切なのは、将来やりたい仕事を就職カタログから選ぶことではない。どんな環境の子にもそれぞれにとって有用な教育資源に気づける機会を与えること、それが自分の目指すべき仕事であり、社会にとっても必要なことなのではないかと。
東京のような便利な大都市で生まれて十分な教育投資を受け、世界に出て経済合理性の中で勝っていく。それも1つの幸せかもしれません。でも、地方で生まれ育ち、経済合理性だけではない幸せを発見できる人材が、さまざまな環境で育った人の中から出て来られるよう支援する仕事も大切ではないか。株主論理の世界ではなく、10代の子どもたちに価値観を育む教育の橋を架けられたらと思い、NPOを立ち上げました。

――現在の10代の悩みや課題はどのようなものですか。

今村 触れるメディアがものすごく変わってきました。これまでは、テレビ、雑誌、広告などでした。現在は、かなりの多くの時間をSNSに費やしています。情報を受けるだけでなく、自ら発信することも可能です。
また、カタリバを立ち上げた時より、中高生が多様な学びを得られる塾や、NPOのプログラムなど学校外の場所も増えています。チャンスを掴めた子は、どんどん新しいチャレンジができます。例えば、クラウドファンディングで1千万円集めて起業するなんて、私が10代の頃は想像すらできませんでした。今は世界から資金調達ができます。
またSNSで、あることについてもっと詳しく知りたいと思えば、専門家にアクセスしたり、世界中の識者とつながったりすることも、やる気と勇気さえあればできる。すでに実践している高校生もいます。
その一方で、同質性の高いコミュニティーの中だけで生きていて、いじめられて悲しい思いをしている高校生もいます。このような分断と格差が10代から始まっていることが問題だと思います。

今村久美氏

タテでも、ヨコでもない、ナナメの関係とは?

――そこで今村さんが提唱されている、「親や教師とのタテの関係」や「同年代のヨコの関係」ではない、「ナナメの関係」が重要になってくるのですね。

今村 高校生の悩みが、1つのソリューションで解決できるなんて幸運としか言いようがありません。大事なことは、「ゆるく対話的な関係性で語れる人」が何人いるかということです。語り合える人とナナメの関係を作っていくことは、広い社会への橋渡しにもなります。学校やSNSコミュニティーの中の悩みというのは、実はとても小さいことだと気づかせてくれる機会になると思います。そうした多様なお兄さん、お姉さんが周りにいる場を提供することがカタリバの重要な仕事です。

――「ナナメの関係」のメリットを教えていただけますか。

今村 ナナメの関係は、年齢だけのことではなく、養育責任者でも評価者でもない点が重要です。両親は理想を描きがちで、生まれてからのその子のことを分かっている分だけ、過干渉になります。学校の先生は教える人であるとともに評価者ですから、どうしても教師と生徒の関係になります。利害関係のないお兄さん、お姉さんや、おじさん、おばさんの関係であれば、「自分の中でもやもやとしてまだ固まっていないんだけどさぁ」とゆるく語り合える逃げ場、つまり心の「サードプレイス」になることができます。
特に、自分たちより少し先輩の大学生のお兄さんやお姉さんとの対話を通して、自分の夢や目標を見つけていってほしいと思っています。

また、ヨコの関係も高校生の年代ではすごく重要です。時にヨコの関係が、すごく同質性の高さを生んで過剰ないじめになります。特に、SNSの招待制のコミュニティー内でいざこざが起きると、周囲の大人たちは気づかないのです。教室内でのいざこざなら、先生が介入できますが、今のSNS内のいざこざは空間移動し、家に帰っても続くのです。クラスの誰かが自分を攻撃しても、誰も助けてくれない。これはとても解決難易度の高い課題です。そこにナナメの関係の誰かがいたら、「そんなこと気にしなくていいよ」と言ってくれます。そうした逃げ道を社会の中で作っていきたいのです。

――カタリバでは、どのように10代の皆さんに機会を提供しているのですか?

今村 3つあります。
1つ目は、「こちらから出向いて行く」ことです。大学生を中心とするお兄さん・お姉さんたちが学校を訪問し、中高生と対話する「カタリ場・プログラム」によって、まずはカタリバの存在を知ってもらいます。よほど意欲があり、また周りに「行って来なよ」と言ってくれる人がいない限り、中高生がちょっと教育色があるところに行くのは面倒臭いと思いますよね。だからこっちから押し掛けるのです(笑)。
体育館に集まった「面倒臭いなぁ」という顔をしている子どもたちに、「私たちは先生ではないですよ」というところからカタリ場・プログラムを実践していきます。

2つ目は、やる気になった中高生たちが活用できる常駐型施設や単発型のイベントを仕掛けていきます。学校の中で得た気づきや、「もっとやりたい、もっと知りたい、もっとつながりたい」と思った子どもたちに、「もっとやれるよ」という場所を提供します。この居場所は、行政と連携して取り組んでいるケースが多いです。例えば、中高生が放課後に通える秘密基地を設けて、貧困や家庭内暴力に悩む子どもたちにアナウンスして、事前登録制で家のように毎日通ってもらい食事と学習支援を提供するなど、多様な形で地域ニーズに合わせて居場所や施設を作ります。これが2つ目の「外に出て行く場所を作る」です。

3つ目は、行政や学校にカタリバの職員をコーディネーターとして送り、「学校をカタリバ的に変えていく」ことです。現在、岩手県の大槌町には、カタリバの職員が高校の魅力化推進員として高校の職員室に籍を置いて働いていて、地域のコミュニティーの中で教育との橋渡しをする企画を策定しています。島根県雲南市でも高校をより魅力的にするために、学校に多様な人が参画できるカリキュラムを構成する支援を行っています。

今村久美氏

「東京にないもの」を見つけたゆきちゃんのプロジェクト

――被災地での支援も積極的に行っていらっしゃいます。岩手県大槌町では、放課後の学びの場「コラボ・スクール」も運営し、支援される立場を卒業した中高生が自ら行動を始める「マイプロジェクト」へと発展していますね。

今村 活動を始めた頃、コラボ・スクールを開講している日には必ず通ってくる中学3年生の女の子がいました。名前は、ゆきちゃんです。お母さんがいなくて、家の建て直しという問題も抱える家庭環境でした。そのゆきちゃんが、高校2年生の時に東京で開催したカタリバのプログラムに参加した時、「東京の夜空には星が見えない」と言いました。
ゆきちゃんは学校の勉強はあまり得意ではありませんでしたが、もともと理科教科の天体は大好きでした。震災前にはすごい天体望遠鏡を持っていて、よく星空を観察していたそうです。震災から2年、3年たって、お世話になってきた人たちがたくさんでき、大槌町に来てくれる人たちに自分もボランティアとして何かをやりたいと思うようになったのです。
そして、「何もなくなった大槌にあって、東京にないものを見つけた。それが星空だ。私がボランティアになって星について説明してあげる」と、目を星のようにキラキラさせて話してくれました。

私たちは「この芽を摘んではいけない、ぜひ盛り上げよう」と決めました。
まずは、Facebookに思いを書こうよと勧め、その時に思ったことを書く。すると、彼女をこれまで支援してきてくれた人たちが、すごい勢いで「いいね」をしてくれる。人にいっぱい出会ってきたことで、自分の発信が共感してもらえると分かった瞬間でした。
さらに、「星のガイドをしたい」その思いを投稿したクラウド・ファンディングで30万円ほど集まって、新しい天体望遠鏡を購入することができました。三鷹の天文台に同行して勉強し、星のことを語れるようになり、星のことを知りたくて大槌町に来る人を募集したら、たくさんの人々が集まってくれました。地域の小学生も参加して、彼女は生まれて初めて教える側になったのです。ものすごい自己肯定感、自己有用感を感じて、これまで支援される側の時にはなかった誇らしげな表情で星のガイドを行いました。
サービスは提供側になった方が学びがあるんだ、自分はこれがやりたいという「マイプロジェクト」を日本中の高校生が持てるようになったらいいなと、ゆきちゃんから教えてもらいました。震災復興でかかわらせてもらったのですが、支援した私たちの方がギフトをもらったと思っています。

そして、全国高校生「マイプロジェクト・アワード」を作りました。最初は、学校の先生に反対されました。岩手県は、部活動の加入率が100%。「部活をしないで、定期テストの勉強もしないで、星がどうのこうの言っている」と。そこで、全国大会で発表するんですよと先生を説得して、分かってもらいました。
マイプロジェクトは2013年にスタートし、文部科学省の後援も付きました。その翌年には、文部科学大臣賞を出せるようになり、最近では、カリキュラムの中にマイプロジェクトを取り入れたいという学校も増えて、現在120の学校が導入しています。昨年の大会へは全国から2700人もの応募がありました。

――最初は反対していた学校も、カリキュラムに取り入れるようになった。中高生たちのやる気が大人を変えたのですね。

今村 そこが教育の本質だと思うのです。子どもたちが変わると、親も教育者も周りの人も変わっていきます。むしろ、子どもが変われる機会よりも、大人が変われる機会のほうが少ないと感じています。
ここまでできるのだということを見せてあげると、大人も子どもたちの可能性を信じられるようになる。これが今、日本中で起きているのです。

――コラボ・スクール、学校や教育機関に派遣するカタリバのスタッフの育成はどのように行っているのですか。

今村 断定的にものを言わない、相手の可能性を信じる、などのスタンス研修やコミュニケーション研修を行っています。貧困や家庭内暴力がある家庭の子どもたちの担当や被災地に派遣するスタッフには、さらに時間をかけて研修を行います。目の前の子どもが苦しんでいる姿を見ると、どうしても救ってあげなきゃという感情になります。しかし、その子の家庭の所得レベルもその子の持っている特性も外部から変えることはできません。最も大事なことは、その子が成長したいと思っている面に光を当て伸ばしていくことです。

今村久美氏

学校と社会の境界線をとかす

――これからカタリバで取り組んでいきたいことは何ですか。

今村 2020年、カタリバは創立20周年を迎えます。この20年で高校生を取り巻く環境は劇的に変わってきました。高校を卒業しすぐに大学に入らなくても、自分が納得するタイミングで大学生になっていいし、新卒で就職しなくても、社会はもっと待ってくれます。働き方も多様化してきています。
しかし、こうした変化はあまり高校に伝わっていません。少子化の影響で、社会での若者の価値も高まっています。もっとわがままに自分が今何に時間を使いたいかをじっくり考えながら、成長していくことが可能な社会になってきていると伝えていきたいです。

同時に、「自分と異質なもの」と出会うことの難易度が上がっていることも、あまり共有されていません。目にする広告は、プロフィールや行動履歴から自分に最適化されたものばかり。自分と似通った人とだけ過ごしていることに気づかず日々生きてしまう。それが可能性を引き出す視野を狭くしています。その分断に釘を刺せるような企画を、これからも実施していきたいですね。

2001年から2010年は、「学校に社会を運ぶ」を事業のキーワードとしてきました。2011年は「学校を社会に開き、10代の日常に伴走する」、2020年は「学校と社会の境界線をとかす」がキーワードです。例えば、兼業教員がもっと増えてもいいと思うのです。週2日は企業、残り3日は学校で教員として働く、といった風に。
今していることは本当に全部学校でやらないといけないのでしょうか。「前へならえ」や「回れ右」など、果たして必要なのでしょうか。戦後作られた集団一斉的なものより、もっと社会のニーズ、社会の実態へととかしていっていいのではないか、個別最適化した学びへと移行していいのではないかと思います。公平さというのは、これまで「一斉にやる」だったけれど、これからは、「公平に個別に選択をしていく」教育になっていくでしょう。その成果を実証できる、説得力のある事例を作っていきたいです。
日本中の10代が、楽しく生きやすいと思える社会を皆で作っていきたいと思っています。

今村久美氏

TEXT:栗原進

今村久美(いまむら・くみ)

認定NPO法人カタリバ 代表理事 1979年、岐阜県生まれ。慶應義塾大学在学中の2001年に任意団体NPOカタリバを設立し、高校生のためのキャリア学習プログラム「カタリ場」を開始。2011年の東日本大震災以降は、被災した子どもたちに学びの場と居場所を提供する「コラボ・スクール」を運営するなど、社会の変化に応じてさまざまな教育活動に取り組む。「ナナメの関係」と「本音の対話」を軸に、思春期世代の「学びの意欲」を引き出し、大学生など若者の参画機会の創出に力を入れる。ハタチ基金 代表理事。2015年より、文部科学省中央教育審議会 教育課程企画特別部会委員。東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会 文化・教育委員会委員。日本IBM有識者会議「富士会議」のメンバー。 受賞歴: 2016年12月 平成28年度 未来をつくる若者・オブ・ザ・イヤー「内閣総理大臣表彰」 2014年3月 第17回地球倫理推進賞(国内活動部門)・文部科学大臣賞 2009年6月 内閣府・男女共同参画「チャレンジ賞」 2008年12月 日経ウーマン・オブ・ザ・イヤー2009 キャリアクリエイト部門、他受賞多数

2020年代の超高齢社会【後編】AIとケアプランをつくる!介護現場にこそテクノロジーを

いま日本の介護・福祉の現場には、人手不足やITリテラシーの不足などさまざまな課題が山積している。そんな中にあって、いち早くテクノロジーを導入し現場の効率化を図ってきたのが「特定非営利活動法人あらた」とイデアルファーロ株式会社だ。

30年前、地元・山形県酒田市で、どの様な人でも暮らしやすいまちづくりを目的にボランティアサークルからスタートした「あらた」。以降、NPO法、介護保険法や障がい者総合支援法など、国の制度の変化に伴い活動を広げ、2019年3月にイデアルファーロ株式会社の設立に至った。介護現場の効率化と更なるサービスの拡充を目指すべく、日本IBMが開発を支援した同社の「障がい者向けケアプラン作成支援ツール」とその効果、そして超高齢社会に突入していく日本の介護の現場の取り組みについて、同社の代表取締役会長を務める齋藤綠氏と、同じく代表取締役社長である齋藤和哉氏に話を聞いた。

「人が人らしく暮らすために」、家庭的な介護の場をつくる

――特定非営利活動法人あらたおよびイデアルファーロ株式会社は現在、酒田市でグループホームや高齢者向け住宅、介護福祉士実務者養成学校、訪問看護ステーション、レストラン、福祉用品事業所など、福祉に関わるさまざまな事業を展開されています。事業を始められた経緯についてお聞かせください。

齋藤 綠 32年前、「赤ちゃんからお年寄りまで、障がいのある方もない方も共に胸襟を開いてふれあうまちづくり」というミッションを掲げて「ボランティアサークルあらた(現・特定非営利活動法人あらた)」を結成したのが今日の活動の始まりでした。最初に取り組んだのは障がい者向けの福祉マップで、車椅子の方々が外出先で困らないようにバリアフリーで使えるトイレなどを記載した地図を作成しました。その後、10年ほどはこのようなマップを作りながら障がい者支援の調査や交流事業などを行い、地域のボランティアとして活動を積み重ねていきました。

そうした活動をつづけていく中で気が付いたことが「住まい」の重要性でした。当時は障がい者や高齢者の受け入れを行っていたのは大型施設しかなく、小規模で家庭的な介護を提供する場がありませんでした。そこで1997年に持ち家を改築し、認知症の方のためのグループホームを開設しました。以降、障がい者のグループホームや有料老人ホームなどを次々につくっていくことになります。

――2005年にはイデアルファーロの前身である株式会社未来創造館を設立されました。

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未来創造館(外観)

齋藤 綠 社名となった未来創造館は、フロントサービスやレストラン、月に40回以上開催されるアクティビティ、医療・介護ケアサービスが用意された東北初の移住も目的としたコミュニティー型賃貸マンション(CCRC)です。これは自分たちが老後を迎えたとき、できることなら自分の家で人生を終えたい、という思いから生まれた施設でした。この頃には「あらた」の事業や取り組むべき社会課題が、NPOの枠では収まらないほど広がり、事業を移行する受け皿として会社を設立しました。イデアルファーロと社名変更したのは2019年3月のことです。

人材不足×アナログな現場をテクノロジーで変革

――酒田市のある山形県は高齢化率が全国平均より10~20年先の水準にあるとわれています。ヘルスケアの現場が抱える課題について教えてください。

齋藤 綠 なんといっても人手不足です。この点に関して私たちは2002年から東北公益文科大学と協力して通信講座による人材育成に取り組んでいます。開講当時はヘルパー2級講座からスタートし、現在では厚生労働省の認可を得て介護福祉士実務者養成学校を運営しています。こうした取り組みもあり、私たちの施設はスタッフに恵まれていますが、介護業界全体では多くの施設が職員のなり手が少ないことに悩んでいます。

その理由は人件費が安いからです。介護保険事業は介護保険料が決まっている以上、人件費を他業種なみに上げることができません。しかもその人件費の元となる介護報酬自体が年々下がってきています。これでは人員確保が困難なのは明らかです。ここ数年は介護事業が成り立たずに倒産する会社が年に100件以上ある状況です。私たちも不採算部門の縮小や、中間的な人材を減らすなど努力を続けていますが、厳しい状況に置かれていることに変わりはありません。

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――イデアルファーロではIBM Watson®を用いた障がい者向けケアプラン作成支援ツールを開発されました。このツールをはじめ、テクノロジーを積極的に活用されている理由は何でしょうか。

齋藤 綠 最大の目的はアナログな現場の効率化です。介護業界は他業界に比べてITリテラシーが低いのですが、逆に効率化の余地が多いとも言えます。

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齋藤和哉 まず取り組んだのはチャットツールやグループウェアツールを使った職員同士の情報共有でした。弊社は拠点数が多く、それが情報共有の壁となっていました。そこで全職員が使用できるチャットツールを導入して迅速かつリアルタイムでの情報共有ができるようにしました。介護の現場ではいまだにFAXを連絡手段として使っているのですが、弊社ではそれもPDF化してリアルタイムに共有しています。これによってペーパーレス化が進み、コスト面でのメリットに加え、電話の取り次ぎメモが不要になるなど情報の整理も進みました。

8時間が1時間に! AIを活用しケアプランをつくるツール

――「障がい者向けケアプラン作成支援ツール」とはどんなものなのでしょうか。

齋藤 綠 障がいのある方が行政の福祉サービスを受けるには、まずケアマネジャーによる自立支援計画(ケアプラン)の策定が必要となります。具体的にはケアマネジャーが障がい者ご本人に直接お会いしてヒアリングを行い、本人の要望や状態に合わせたケアプランを作成します。たとえば、重度の身体障がいを負った方がいるとします。その方が生きる目標として、コンサートに行きたいとします。このニーズを引き出すのもケアマネジャーの力量のひとつです。それを目標として定め、実現するために心身のリハビリをして、福祉用具を整えるなどプランを作成します。そのように、ケアマネジャーが本人の希望を聞いて最良の方法を探し出していくのですが、時間と労力がかかるうえ、ケアマネジャーの力量によってプランの内容に差が出てくるといった問題がありました。

しかしこの障がい者向けケアプラン作成支援ツールではAIを活用し、ニーズに合わせて「これがよいのでは」という提案をしてくれる。すると今まで最低でも8時間、ときには数日かかっていたプラン作成が1時間ほどで済むようになりました。私自身、東京から引っ越しされてきた障がい児のお子さんを担当したのですが、1時間の初回面談の間にアセスメントの聴取と計画案ができてしまいました。あとはその場で保護者にサインをいただき、市役所に提出するだけです。初回面談1回ですべての手続きが終了しました。プランの作成に慣れているベテランのケアマネジャーであれば20分ほどで作業を完了することができます。

齋藤和哉 ツールの仕組みとしては、トータル155項目のアセスメントをWatsonの自然言語分類であるWatson Natural Language Classifierに学習させており、ケアマネージャーが自然言語で入力した障がい者ご本人のニーズをもとに支援目標を提案させるクラウド型のシステムとなっています。学習型のAIというのは良質なインプットとデータ量が多くないとすぐには良い成果は出せません。プロジェクトの成功のためには業務現場を熟知している専門家とエンジニアの協力が必要不可欠です。

しかし、両者の文化は大きく違うため、相互理解が困難でした。そこで、両者のつなぎ役を私が担いました。私達はアジャイルで開発を進め、インプットとしてのアセスメントの定義とアウトプットの定義の見直しを進めていきました。最終的にはIBMのエンジニアとケアマネジャーが直接「現場の人間が要求していることはこういうことです」と議論ができるところまで到達しました。

私達はアセスメントを重視し、利用者様の状態をICF(国際生活機能分類)の理念をもとに分類し、Watsonに学習させています。IBMのエンジニアと弊社のケアマネジャーが徹底的に話し合った結果、契約から約2カ月という短期間で納得のいくプロトタイプを完成させることができました。現在は2020年2月の商品化に向けて県内外のケアマネジャーの方々に試用していただいている段階です。限定100名様の事前登録の申し込みを受け付けています。(https://pacchiri.com/
12月4,5,6日の中小企業 新ものづくり・新サービス展に出展するのでそこで実際にお試しいただけます。どうぞお越しください。(https://www.shin-monodukuri-shin-service.jp/)

IBM_AI×介護2

齋藤 綠 良質な結果を生み出すコツは「リフレーミング」を繰り返すこと。たとえば、統合失調症の方がいるとして、単に病名だけ入力すると「通所施設に通いましょう」とか「コミュニティーに入りましょう」といったありきたりの提案が返ってきます。しかし「統合失調症だけど自分はこのように生きていきたい」という言い方に直せば、ケアプラン作成支援ツールはより本人の希望に応えた提案をしてくれます。だから、ツールを使う側のケアマネジャーの方々にもリフレーミングを繰り返してほしいとお伝えしています。見方や言い方を少し変えるだけで、自分ひとりでは想定していなかった提案をケアプラン作成支援ツールがしてくれます。はじめての事例で不安なときや、悩んだり迷ったりするような場面でもサポートしてくれる。そういう意味ではケアマネジャーの育成という役割も担っていると言えます。

もうひとつのメリットは、お金のことや病状のことなど、下手に訊くと失礼にあたるようなことでもシステムとして質問できるので、実はこの点は非常に助かっています。

――それまで8時間かかっていた仕事が1時間に短縮というのはイノベーションと呼んでいい効率化です。これからもテクノロジーを活用した効率化を進めていくのでしょうか。

IBM_AI×介護2

齋藤 綠 この業界にも効率化のための記録用ソフトウェアなどはありますが、気軽に使えるクラウド型のものはほとんどありません。古いデスクトップのPCを買い換えようとすると、ライセンス料とは別にソフトの再インストールだけでも費用がかかります。私たちはこうした状況を、業界の中から変えたいと考えています。この先もさまざまな人を対象にしたクラウド型サービスを開発していくつもりです。

現場での実証を元に、超高齢社会でテクノロジーが出来ることを探り続ける

――現場の経営者として「超高齢社会」をどうお考えですか。

齋藤 綠 超高齢社会の課題は挙げたらキリがありません。中でもいま現場がぶつかっている大きな課題は、障がい者を専門とするケアマネジャーの不足です。障がい者も65歳になったら介護保険が適用されます。そうなると介護保険のケアマネジャーが障がい者の相談を受けることになるのですが、障がい者のケアプランというのは一般の高齢者に比べると作成に時間がかかるし、きめ細かい知識が必要となります。経験の少ないケアマネジャーが対応するのは困難です。そもそも高齢者が増え忙しくなっていく中で、障がい者の人たちに対応しきれるかどうか。この課題をクリアするには、やはりテクノロジーの力が重要だと思っています。AIを活用すれば介護保険用のツールも開発可能なので、今はそこに取り組んでいるところです。

超高齢社会は避けられない現実ですから、私たち自身、意識を変化させていくことが重要だと感じています。寿命が長くなれば、当然、今までできていたのにできなくなることが増えていきます。それを恥ずかしいとは思わずに、みんなで共有できるようなバリアフリーな社会を作っていくことが大切です。テクノロジーに何ができるか。現場での実証をもとに、社会全体で誰もが使えるような支援システムを提供していきたいですね。

TEXT:中野渡淳一

>>前編はこちら【2020年代の超高齢社会【前編】デザインシンキングがヘルスケアを変える】

齋藤 綠(さいとう・みどり)

1953年生まれ。イデアルファーロ株式会社代表取締役会長。
特定非営利活動法人あらた創設者。1953年生まれ。イデアルファーロ株式会社代表取締役会長。昭和62年、前身となるボランティアサークルあらたの活動を起点に「 赤ちゃんからお年寄りまで障がいのある人もない人も共に胸襟を開いてふれあうまちづくり 」を使命に、民間介護の家たくせいをはじめ、各種介護・障がい福祉サービス・24時間フロントサービス付き賃貸マンション 未来創造館CCRC・サービス付き高齢者向け住宅 新未来創造館・世代交流館あらたなど、地域の多様なニーズに合わせ市民が必要とする事業を展開。主な表彰として、毎日介護賞グランプリ、山新放送愛の鳩賞など受賞。公職として、山形県選挙管理委員、山形県国民保護協議会委員、地方独立行政法人山形県・酒田市病院機構評価委員会委員、山新放送愛の事業団評議員、東北公益文科大学評議員など歴任。新潟大学教育学部卒業後、お茶の水女子大学家政学部児童学科児童臨床研究室、松村康平教授の助手を経て、大学・短期大学・保育専門学校で教鞭を執る。

齋藤和哉(さいとう・かずや)

1988年生まれ。イデアルファーロ株式会社代表取締役社長。
障がい・介護事業分野で社会起業家の母( 齋藤 綠 )からの多大なる影響と、AIやIOTなどテクノロジーの発達が著しい中、社会福祉の分野だけでなく一企業として産業・経済に貢献し、よりユーザーの立場からの開発・社会実装が必須と痛切に感じ、AI企業に舵を切るべく、デジタルトランスフォーメーションを実施。大学の非常勤講師で工学実験講師を務めつつ、株式会社未来創造館に開発事業部を設立。2017年度ものづくり補助金認定事業に取り組み、2018年にはwework丸の内に東京事務所を開設。AIケアプラン作成支援ソフト「パッチリ」を日本IBMと開発。同年、IBM Cloud & AI Conferenceにて変革を実現する企業として紹介された後、2019年「イデアルファーロ株式会社」へ商号変更をし、代表取締役社長に就任。地域福祉は「民間」主導のため、その中心を担う特定非営利活動法人あらたのマネジメントにも最新の民間原理を導入。大学院( バイオ・情報メディア研究科バイオニクス専攻 )修了、メーカーにて再生医療の製品開発に従事した後、今に至る。

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欧州やアメリカからアジアの国々まで、高齢化は既に世界的に進んでおり、高齢社会で起こるさまざまな課題を解決するためにはイノベーション創出が不可欠である。そんな中、2007年に高齢化率21%を超え、いち早く「超高齢社会」を迎えた日本。「課題先進国」として世界各国から注目を集める日本は、グローバルで通用するイノベーションを起こすことができるのか。その鍵はテクノロジーとデザインシンキングによる徹底的なユーザーニーズの把握にあると語るのは、日本次世代型先進高齢社会研究機構(Aging Japan)代表の阿久津靖子氏だ。長年ヘルスケア業界で製品開発やサービスのデザインコンサルに携わってきた同氏に、医療や介護における世界のトレンドとヘルスケアの未来について聞いた。

超高齢社会を正しく捉えるマインドセットとは

――日本は超高齢社会を迎え、2025年には人口の3人に1人が65歳以上の高齢者となります。それにともないヘルスケアの領域においてもさまざまな課題が浮き彫りとなりつつあります。日本社会が取り組むべき最優先の課題は何であると思われますか。

阿久津 高齢化やヘルスケアの課題というと、まず頭に浮かぶのは医療・介護の課題です。これまで国もそれに対応してさまざまな制度を整えてきました。その結果、日本は医療保険だけではなく介護保険も完備されているという世界でも珍しい恵まれた制度を持つ国になりました。とはいえ欠けている視点がないわけではありません。

日本人はこれまで医療や介護を国の制度に依存する一方で、「実際に自身が高齢となってからどう生きていくか」ということに関して深く考えてはきませんでしたし、国家として超高齢社会に対する明確なグランドデザインがないまま今日に至ってしまいました。たとえば、定年退職後にどういう生活を送るか。近頃目立つのが男性の「おひとりさま」です。私はよく、昼間のスーパーマーケットで、高齢の男性がひとりでお弁当を買っているのを目にします。奥さんが仲間と楽しくランチを楽しんでいる時間に、旦那さんは孤独にお弁当を食べているのです。これは、はたして幸せな老後と言えるでしょうか。

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振り返ると、日本人は戦後の高度成長に支えられて何も考えぬまま超高齢社会を迎えてしまった。国は「人生100年時代」と謳っているけれど、これは要するに100歳まで働けと言われているようなものです。ところが、多くの国民はまだそこまで正しく理解をしていません。ですから、まずは人々のマインドセットを変えていくことから始めるべきで、そこから医療や介護などの具体的な問題を考えていくことが大切だと思います。

――今後必要となるマインドセットとは、具体的にどんなことを指すのでしょうか。

阿久津 ひとりひとりが人生の最後まで元気に暮らすためには何が必要なのか、自分事として考えることです。たとえば福祉先進国であるデンマークでは、「リビングラボ」という共創活動が浸透していて、国民ひとりひとりが個人の生き方や国の財政なども含めて自分たちで老後の暮らしをデザインしていこうと考えています。それに比べると日本は医療も介護も「お上に与えてもらうもの」といった受け身の印象を感じます。

この傾向は介護器具の形などにも現れています。日本の介護器具は技術やテクノロジーが優先で、介護する側にとっても、介護される側にとっても「使いたい」と思えるような製品が少ない。被介護者の中には補助具を使えばADL(日常生活動作)を下げずに普通に生活でき、そのことでフレイル(虚弱)予防出来るというデータも出ているのですが、最適な補助具がなくそれが難しいというケースもあります。

よく日本は高齢先進国だから、そこにビジネスチャンスがあるという声を耳にします。では日本の介護機器がグローバルの介護市場で通用するかといえばそこは疑問です。先日もシンガポールで開かれたエキシビションに行ってみたら、補助金で作った日本の介護機器と北欧の機器が並べられているのを見て「これは勝負にならない」と痛感しました。ひとことで言うと、日本のプロダクトには現場のニーズを徹底的に考える「デザインシンキング」が不足しています。同様に日本の介護保険は優れてはいますが世界的には特殊なシステムなので、そこから得たノウハウを海外にそのまま持っていっても通用しません。世界に出るなら、その国のニーズを詳細に調べない限り、残念な結果に終わってしまうのではないでしょうか。

ヘルスケア領域における「デザイン」の意味と真のユーザーニーズ

――阿久津さんは2012年にMTヘルスケアデザイン研究所を設立され、デザインを軸に日本のヘルスケアイノベーションに携わってこられました。ヘルスケア業界に参入された理由や動機をお聞かせください。

阿久津 私は大学院を卒業後、インダストリーデザイン事務所に就職して、製品を世に出す前に世の中のトレンドの調査をする仕事をしていました。その後、子育てを経て、子ども向けの家具や日本初のオーダーメイド枕などの寝具の商品開発に取り組みました。それを通して気付いたのは、寝具を売るということはベッドや枕などの「プロダクト」を売るのではなく、睡眠や健康を促進するという「サービス」を売るということであり、そこにはユーザー目線に立ったデザイン思考が必要だということでした。これをきっかけにMTヘルスケアデザイン研究所を設立し、事業としてヘルスケアに関するプロダクトの開発やデザイン、コンサルタントを始めたといった次第です。

――MTヘルスケアデザイン研究所ではどんな製品をデザインされているのでしょう。

阿久津 直近の事例だと、オフィス家具メーカー(タカノ株式会社)からのご依頼で内視鏡の検査台(ベッド)のデザインをさせていただきました。医療業界でプロダクトというと、まず機能ありきで、デザイナーは最後に「見た目をどうにかして」とだけ依頼されることが多いのですが、デザインシンキングで言うデザインとは製品開発の最初の段階からデザイナーが参加することを意味します。ですので、この検査台でもリサーチから開発までの2年間をご一緒させていただきました。

デザインにあたって第一に考えたのはユーザビリティでした。ここで言う「ユーザー」はもちろんドクターだけでなく、ナースや患者さんなど、すべてのステークホルダーです。誰にとっても使いやすいかを考える必要があるわけですが、ヘルスケアのプロダクトというのはステークホルダーが多く、全体のバランスを取るのが難しいんです。ヒューマンセンタード・デザインを基本としつつ、患者目線だけではなく、幅広くニーズを集めた上で最大公約数的な答えを見つけなければなりません。

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タカノ株式会社製の汎用診療・処置台「コンバーES」

そうやってユーザー側のリサーチを重ね、最終的に完成したのがチルト式のコンパクトなベッドでした。高齢者の方でも使いやすいように高さは低めに、検査後の移動の際にナースがひとりでも患者さんを運びやすくするため、椅子のように上半身を立てられるものにしました。2018年11月の発表から話題となって、先日も内視鏡の専門医の先生からお褒めの言葉をいただきました。

――デザインシンキングでは、ニーズを探ることが重要なのですね。

阿久津 そうです。ただ残念なことに日本人はこのニーズの探索を不得手としているように感じます。スタンフォード大学のバイオデザインプログラムなどはとてもよくできていて、客観的に事実だけをエスノグラフィー的にどんどん並べていき、正確にニーズを読み取っている。そこから、こんなニーズを持った人が何%いて、そこをターゲットにするとどんな競合相手がいて、解決策が通用しなかった場合はどうするか、というところまで追求して製品のコンセプトを作っている。これが彼らの言うデザインシンキングなのです。

それに対して日本は、デザインよりもテクノロジーを重要視し、製品のスペックを上げることで課題解決できるという考え方をしてきたためか、なかなかデザインシンキングという発想に結びつかない。今からでも遅くはないので、日本人ももっとエスノグラフィー的な観察眼を持つべきだと思います。

――会社の事業とは別に、2017年にNPO法人のAging Japan(日本次世代型先進高齢社会研究機構)を設立されました。Aging Japanの事業や活動内容を教えてください。

阿久津 Aging Japanでは、サンフランシスコに本部を置くAging2.0という世界組織のコンシェルジュ的な活動をしています。Aging2.0は世界で進む高齢化を新しいチャレンジができる市場とみなし、イノベーションを加速させる活動をしています。Aging Japanはその日本の窓口であると同時に高齢社会の課題解決のプラットフォームであり、海外や高齢先進国である日本の情報を発信しています。活動も3年目に入りましたので、そろそろ日本独自の活動というか、ヘルスケアやアクティブシニアのプラットフォームを作りたいと考えているところです。

人生を最後まで穏やかに過ごすためのヘルスケアイノベーション

――さまざまな課題があるなかでヘルスケアの領域でもイノベーションが必要だと言われています。阿久津さんが考えるヘルスケアイノベーションについてお話しください。

阿久津 私が考える理想のヘルスケアの形は、人がいつまでも自身の身体や精神の不調を感じることなく「普通に暮らせる」こと。つまり人が可能な限り自立して生活ができるということですが、視力の悪い人がメガネをかけるように、身体が不自由な方がパワードスーツを利用する、というレベルで道具が民主化すれば、被介護者の自立は飛躍的に促されるでしょう。不足した身体の機能を補うことがテクノロジーの役割であり、当たり前に使いたくなる形にすること(=民主化)がデザインの役割だと考えています。

そして今後、国の施策もあって医療は病院の中だけでなく生活の中に入ってくると予想されます。そうなると、最後は在宅のまま亡くなる方が増えてくる。死生観のような話になってしまうのですが、やはりどんな生活をして、どういうふうに暮らし、どうやって死んでいきたいのか、そこを考えることがヘルスケアイノベーションにつながっていくのではないでしょうか。テクノロジーとデザインによって人それぞれの「よく生きる」を実現していくことが求められていくのだと思います。

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――阿久津さんが描く未来のヘルスケアとはどんなものでしょう。

阿久津 私の好きな言葉に寺山修司の「ぼくは不完全な死体として生まれ何十年かゝって完全な死体となるのである」(寺山修司「懐かしのわが家」『朝日新聞』1982年9月1日)という言葉があります。人生とは生まれてから亡くなるまでのプロセスです。それを踏まえて描く未来のヘルスケアとは、先にも述べたようにやはり人生を最後まで平和に、穏やかに暮らして送ることではないでしょうか。そのためのデザインであり、イノベーションだと思うのです。

世界の流れを見ていると、シリコンバレーではテクノロジーの力で不老不死を目指している人たちがいます。それもまた素晴らしいイノベーションですが、日本を含むアジアの国々にはそれとは別の東洋思想的なヘルスケアの考え方があると考えています。実際、マレーシアやインドネシアといったASEANの国々は超高齢社会の先進国である日本を注視しています。個人主義の欧米では高齢化社会になってもひとりで暮らせるようなサポート体制が整っている。それに対してアジアの国々は伝統的に家族主義で家族が高齢者をサポートしてきました。日本はちょうどその中間に位置しています。

今、特に問題となっているのが都市部への人口集中と高齢者の孤独で、アジアの国々でも同様の問題が起き始めています。そのため西洋的な個人主義に強く影響されていないアジアの人たちは日本がどう対処していくのかを興味深く見ています。超高齢社会において必要なマインドセットとはどのようなもので、そのためにどういったサポートをしていけるか。デザインシンキングでその答えを見出せたらと願っています。

TEXT:中野渡淳一

>>後編はこちら【2020年代の超高齢社会【後編】AIとケアプランをつくる!介護現場にこそテクノロジーを】

阿久津靖子(あくつ・やすこ)

Aging Japan(日本次世代型先進高齢社会研究機構)代表理事。株式会社MTヘルスケアデザイン研究所代表取締役。日本睡眠改善協議会睡眠改善インストラクター。
津田塾大学学芸学部国際関係学科卒業。1982年、筑波大学大学院理科系修士環境科学研究科で地域計画を学ぶ。同大学院修了後、GKインダストリアルデザイン研究所入社。プロダクト製品開発のためコンセプトランニング・博覧会コンセプトプランニングや街づくり基本計画に携わる。その後、会社数社にて商品企画開発(MD)および研究、店舗の立ち上げ、マネジメントを行い、2012年、ヘルスケアに特化したデザインリサーチファームとして株式会社MTヘルスケアデザイン研究所を創業。2017年、Aging Innovation 創出においてDesign thinking の重要性を痛感し、Aging Japan(日本次世代型先進高齢社会研究機構)を設立する

コンピューター教育が一変する――「計算」をより広く捉える「計算パラダイム」の到来に備えよう

コンピューターのほとんどは、1936年に英国の数学者アラン・チューリングが考案したモデル(チューリング・マシン)を原型とする0と1が並んだビット列などで演算を行う。
その一方、脳の構造を模した深層学習(ディープ・ラーニング)という、チューリング・マシンとは異なる計算方式が新たに登場。さらに量子力学、化学反応、波動、生物進化など「自然計算」と呼ばれる分野も注目され始めた。
そんな中、「計算」の定義を拡げた新しい「計算パラダイム」を主張するのが、株式会社
Preferred Networks(PFN、プリファードネットワークス)フェローで、元日本IBM株式会社東京基礎研究所長の丸山宏氏である。「社会や自然界は複雑な構造を持ち、多くのパラメーター (parameter)が互いに束縛しながら動くことで出来ている」とし、効率的に課題を解決するにはチューリング・マシンを超える「計算パラダイム」へのシフトが不可欠だと提唱する。
子どもたちのコンピューター教育についても、丸山氏は「アルゴリズム(演算手順)から始める学び方はこれから一変する」と予測する。
今年8月、専門家らに呼びかけ、「計算の未来と社会」と題する会議をIBM天城ホームステッドにて開催し議論を交わした丸山氏に、コンピューターや私たちの社会はこれからどのように変わるのか、お話を伺った。

実用化が見えてきた量子コンピューター

――コンピューターの学問と聞いただけで、一般の人は難しい印象を持ちます。計算の世界で今何が起きているのか、分かりやすく解説していただけますか。

丸山 私が計算パラダイムに関心を持つようになったきっかけは、2つあります。1つは、深層学習を研究するうちに従来のチューリング・マシンの計算モデルに限界を感じたこと。もう1つは量子コンピューターが登場し、実用化がある程度見えてきたことです。
文部科学省は小学校でプログラミング教育を始めていますが、やっていることはアルゴリズム(演算手順)をプログラムとして書き下すことです。コンピューターを動かすための「0か1か」の手順をステップ・バイ・ステップで書いていくチューリング・マシンをモデルにした「古典計算」です。
しかし10年後、今の小学生が大人になる頃には、世の中はもう「古典計算」の時代ではなくなっているかもしれない。ですから、「計算」の範囲を今のうちから広げ、いろいろな種類があることを知っておいてほしいのです。

計算の定義を一番広く見ているのが「自然計算」の分野です。その中でも1歩先を行くのが量子コンピューターで、今回の会議では日本IBMの小野寺民也氏が発表しました。原子や分子の「重ね合わせ」や「もつれ」を利用して、高度な計算を行うことができます。得意なのは量子力学のシミュレーションですが、分かりやすい例には、ケタが大きい整数の素因数分解などがあります。

IBMは今年1月、世界初の商用量子コンピューター「IBM Q System One™」(写真1)を発表しました。これから解ける問題の範囲が広がっていくことが期待されます。

IBM Q System One™

写真1:IBM Q System One™
出典:https://www-03.ibm.com/press/jp/ja/pressrelease/54650.wss

IBMの量子コンピューター

写真2:IBMの量子コンピューター
出典:https://www.ibm.com/blogs/think/jp-ja/ibmq-quantum-computer/

波動、化学反応、遺伝子の進化、光も「計算パラダイム」の1つ

――量子コンピューター以外の自然計算にはどのようなものがあるのでしょうか。

丸山 物質や空間を伝わる振動(波動)を利用する波動計算があります。振動を伝える物質や空間を媒質と言いますが、媒質中を波が進む時スピードが変わったり、重ね合わせが起きたり、干渉・屈折・共鳴の現象が起きたりします。これらの現象が「計算」なのです。会議に参加した日本IBMの片山泰尚氏はナノテクノロジーの専門誌で波動計算を提案し、年間ベスト論文賞を受賞されました。
化学反応については、分子計算の専門家である萩谷昌己・東大教授が、会議で「いろいろな分子を試験管の中に入れて振ると、さまざまな化学反応が起きて分子同士が結合する。その反応の1つずつが計算であり、膨大な自然計算をしている」と説明されています。

また生物の遺伝子が突然変異を起こして生き残っていく過程も進化計算と言われ、数学的には最適化問題を解いていると言えます。
ニューラル・ネットワークの世界では、米ウィスコンシン大学が、内部に空気の泡を閉じ込めた小さなガラス板を利用する計算を研究しています。光を横から入れると、内部で散乱や反射された光が反対側から出てきます。入った光と出た光を対応させれば、光速度での計算が可能になり、少なくとも推論に関してはものすごく速くて電力消費が少ないニューラル・ネットワークになります。

このように計算は、これまで人間が考えていたよりはるかに広い概念であることが分ってきました。10年ぐらい先には、古典計算ではない計算が普及するパラダイム・シフトが起きるでしょう。社会はそれに備えておかなくてはいけません。

丸山宏氏

お金と電力エネルギーを大量消費する深層学習

――深層学習は、自動運転への応用などが注目されてブームのようになっていますが、実際はどのような状況なのでしょうか。

丸山 深層学習は、今は古典計算を使って無理やりという感じでシミュレートしているために、とても効率が悪いのが実情です。CPU(中央演算装置)は計算速度が遅いので、私が勤務するPFNは、GPU(Graphics Processing Unit:画像処理を得意とする演算装置)を2000枚使って効率化を図っています。しかし、GPU は高価格なので、大きな負担です。

もし、片山氏が取り組まれている波動コンピューターが実用化されれば、エネルギー消費は間違いなく2桁低減させることができます。前述した米ウィスコンシン大学のガラス板の研究も、実用化はまだ先ですが、エネルギー消費を激減させます。
米ミシガン大学も、電気のアナログ回路によって深層学習の1層分の計算を1つの半導体チップでやってしまう研究成果を発表しており、期待が持てそうです。

「全体を同時に見る」ことで実現したがん診断技術

――PFNは国立がんセンターと共同で、深層学習により血液中の成分によってがんを診断する方法を開発しています。どのような診断法なのか、説明していただけますか。

丸山 その血液中の成分はExRNAと言い、細胞の外に出てきたRNA(リボ核酸)の断片です。塩基配列が4000種類以上あり、がんの種類によってそれぞれの発現量が違うので、発現の仕方を調べることで、がんの種類を判定するのです。
従来の研究は、約4000種類の中から「○○がんを特定する支配的なExRNA」を探すことが中心でしたが、約4000種類の発現量をすべて同時に見ることにより、がん診断の精度を飛躍的に高めることに成功しました。
約4000種類の発現量を1つ1つ調べるのではなく、全体をパターンと捉えて解析する技術です。国立がんセンターが保有する実際のがん患者さんの豊富なデータをコンピューターに学習させ、診断精度を高めています。全体を捉えるというのは、まさに深層学習が力を発揮する分野なのです。
現在はたくさんのGPUを使い、多大なエネルギーを消費していますが、今回の会議で提示されたさまざまな計算パラダイムが実現すれば、様相はガラリと変わるでしょう。

丸山宏氏

これまで計算だと思っていたものは、実は計算全体のごく一部だった

――丸山さんは計算のブレークスルーを「要素還元主義からの脱却」と呼んでおられます。これはどういう意味なのか、分かりやすく解説していただけますか。

丸山 要素還元主義は古くはデカルトの「方法序説」から発しています。複雑な対象を細かく要素に分解し、最小の原理から説き起こせば、自然界の作用機序、つまり仕組みやメカニズムはすべて説明できるという考え方です。
例えば、私たちが金融システムや航空機など複雑な工学システムを安心して利用しているのは、それらがコンポーネントに細かく分解でき、各コンポーネントの正しさが検証されているからです。
このようにすべてを要素に還元して説明できれば美しいのですが、私たちの興味を引く対象の多くは非常に複雑です。社会のダイナミクスや自然界の動きは、多くのパラメーターがお互いに束縛しながら動くことで出来ており、高次元で非線形、複雑な構造を持っています。
特に生物学の分野はそうです。生物学者・福岡伸一さんの名著『世界は分けてもわからない』が指摘するように、生物は要素還元主義では説明できないというのが共通認識になっています。
生物以外でも、例えば人の心を癒す京都のお寺の枯山水は、石や松など個々の要素に分けても説明にならず、「全体として捉える」しかありません。

今回の会議では、いろいろな計算パラダイムの可能性が紹介されました。チューリング・マシンでは解けない問題がこの世の中にはたくさんあり、私たちがこれまで計算だと思っていたものは、実は計算全体の中のごく一部でしかなかったということを痛感しました。
もちろん今のコンピューターの技術は熟成されているので、それぞれの用途に応じて使われるのではないでしょうか。

議論する専門家たち

グループに分かれ、新しい「計算」について熱心に議論する専門家たち

全国30数校の小学校が今秋から深層学習を学ぶ

――子どもたちのコンピューターの学習法もこれから大きく変化するとのことですが、具体的にどのように変わるのでしょうか。

丸山 これまで子どもたちに教えてきたプログラミングは、問題を解くためのアルゴリズムを考え、計算のステップを記述することでした。
しかし深層学習の場合、子どもたちは多くの事例をコンピューターに与えるだけです。すると、それを模倣する計算がニューラル・ネットワークの中に現れます。従来のプログラミング教育とは全く違うやり方です。

子どもたちにプログラミングを教えると、必ず何割かの生徒は途中で挫折します。そもそも、与えられた問題を理解することと、それを解くアルゴリズムを思い付くことの間には、思考の流れにギャップがあります。これは人の思考にとって不自然なやり方で、なかなか直感に合いません。多くの人にとって「それを思い付け」と言うほうが無理なのではないでしょうか。世の中の半分の人が「プログラミングは苦手」と言うのは不思議ではありません。
一方、赤ちゃんは周囲の人の動作を真似ることによって、いろいろなことを覚えていきます。子どもはもともと模倣することが得意なので、深層学習のように模倣でプログラミングするやり方は理解しやすいのです。
PFNはこうした深層学習を学ぶための教材を作成し、文部科学省に提供しています。9月に実施される「未来の学び プログラミング教育推進月間」の一環として、全国数十校の小学校の高学年クラスに導入されます。模倣に基づくプログラミング(これを「帰納的プログラミング」と呼んでいます)が普及すれば、「プログラミングが嫌い」という子どもはいなくなるのではないでしょうか。

「火星語の翻訳機」を作る子どもたち

火星語の翻訳機に挑む子どもたち

写真3:火星語の翻訳機に挑む子どもたち  資料提供:丸山宏氏

――どのような教材なのか、具体的に説明していただけますか。

丸山 教材には例えば「火星語の翻訳機を作ろう」というのがあります。子どもたちには0から9まで10個の数字を、自由に思い付いた「火星語」で書いてもらいます。それを皆でシートに書いてタブレットで撮影し、それを事例(訓練データ)としてクラウド上の翻訳器を訓練します。この際、翻訳器は事例を模倣するように訓練されます。

次に子どもたちが指でタブレット上に火星語の数字を書くと、先程の事例で訓練された翻訳器がパターンを判別し、対応する0~9の数字がタブレットに表示されます。子どもたちは火星語の翻訳ができる仕組みを知り、必ずしも100%の精度が得られないこと、データ数が少ないと翻訳の精度が低いことなど、帰納的プログラミングの特徴を理解します。教室にある機材だけで授業ができ、内容が面白いので子どもたちの興味を引く教材になっています。
同じように、いろいろな花の写真を学習させてチューリップを判別する仕組みを作ることもできるし、その子たちが大人になってがんを鑑別するシステムを作ることもできるという発展性があります。

丸山宏氏

――今回の会議では、富山国際大学付属高校の2人の高校生が独自に開発中のビジネスモデルを発表して、出席者の反響を呼んでいましたね。

丸山 この高校では部活動にメディア・テクノロジー部があります。さまざまなテクノロジーを使って社会問題を解決することを目的に活動しており、慶應義塾大学の「データビジネス創造コンテスト」で最優秀賞をとった実績もあります。2人が開発中のシステムの概略を紹介しましょう。

吉田怜未さんの発表 「テーマ:ストーカー被害予防システム」

夜道などでのストーカー被害は女性にとって深刻だ。監視カメラが普及し、不審者情報が流されているが、本当に知りたいのは、自分にとってのリアルタイムな安全情報。吉田さんたちはそれを実現するデバイスを開発している。首から掛けたバンドに前方と後方を見るWebカメラや赤外線カメラを取り付け、機械学習を用いた画像認識プログラムがその画像をもとに安全かどうかを自動判定する。車や人が急接近したり不審な行動をしたりすると、デバイスが警告を発する。こうした装置をみんなが装着すれば、ストーカー行為を減らすことができる。プライバシー問題や誤検知の問題をどう解決するかが残された課題である。

発表する高校生

宮嶋奎太朗さんの発表 「テーマ:アクティブ・ヘルスケア社会」

宮嶋さんたちは、ヘルスケア分野に多様なテクノロジーを導入するアクティブ・ヘルスケア社会を目指したいと考えた。現在のヘルスケアは、体調を崩したら病院に行くというように受動的で、コトが起きてから行動を起こす。しかし、アクティブ・ヘルスケアのデータを統合すれば、体調を崩しそうな場合、前もって対処することができる。高校生の場合、インフルエンザや風邪にかかり1日休むと7時間の授業を逃すことになり、遅れを取り戻すのは大変だ。
そこで、学校内のマスク着用者数や教室内で咳をする音の回数などを分析する。数の増減と、生徒の体調悪化やインフルエンザの流行に相関関係を見つけることができれば、今後の予測に役立てることができる。このようなさまざまなアクティブ・ヘルスケアのデータを統合することで、学校や企業などの健康維持に応用できるのではないか。

発表する高校生

丸山 私は、こうした若者たちの発想や研究開発への取り組みがさまざまな学校に広がっていくことで、深層学習をはじめとするテクノロジーへの理解が深まることを期待しています。そして子どもたちには、近い将来直面する「計算」をより広く捉える「計算パラダイム」の到来にしっかりと備えてもらい、ぜひ社会の発展に寄与してほしいと願っています。

TEXT:木代泰之

丸山宏(まるやま・ひろし)

株式会社Preferred Networks (PFN)フェロー。工学博士。 1958年生まれ。1983年東京工業大学大学院理工学研究科修士課程修了。同年日本アイ・ビー・エム株式会社入社。人工知能、自然言語処理、機械翻訳などの研究に従事。1995年京都大学より博士(工学)授与。1996年米IBMソフトウェア事業部において、インターネット技術の評価。以降、XMLやWebサービスの研究開発・標準化に従事。1997~2000年東京工業大学情報理工学研究科客員助教授、2003年アイ・ビー・エム・ビジネスコンサルティング・サービスへ出向。2006~2009年日本アイ・ビー・エム株式会社東京基礎研究所所長。2009~2010年キヤノン株式会社デジタルプラットフォーム開発本部副本部長。2011~2016年情報・システム研究機構統計数理研究所教授。2016~2018年株式会社Preferred Networks最高戦略責任者。2018年4月より現職。

84歳のアプリ開発者・若宮正子が語る、楽しく豊かな「100年人生」

定年まで勤め上げた銀行を退職したことを機にパソコンを購入し、60歳を超えてから、さまざまなスキルを独自に習得していった若宮正子氏。1999年にはシニア世代のためのサイト「メロウ倶楽部」の創設にも参画し、現在もテクノロジーと高齢者との架け橋となるような活動を続けている。

そして2017年、81歳でスマートフォンのゲームアプリ『hinadan』を開発すると、米アップル社による「WWDC 2017」(新製品の発表やCEOらによる基調講演など、最新技術のプレゼンテーションが行われるイベント。世界中の技術者たちの情報交換の場となっている)に特別招待されるなど、その活動は全世界に知られることとなった。80歳を超えてからのプログラミング知識の習得という事実には恐れ入るばかりだが、その後のアグレッシブな行動力と、好奇心に蓋をしないポジティブな生き方に、シニアのみならず世界中の人々が感銘を受けている。84歳の今もなお、テクノロジーと社会とを結ぶさまざまな活動を続ける同氏の、その原動力の秘密に迫る。

「年齢は単なる数字だとしか思っていません」

──若宮さんが本格的にパソコンを使い始めたのは60歳になってからだとお聞きしました。どんなところに興味を惹かれて、もっと学びたいと思うようになったのでしょうか。

若宮 「学びたい」というよりも、「高価なおもちゃで遊ぶ」という感覚でした。パソコンを手に入れたのは正確には58歳のとき。当時はまだ現役で仕事に就いていたのですが、定年退職が近づいてきて、退職金ももらえるだろうからということで、じゃあパソコンを買っちゃおうと、勢いで買ってしまいました。私は新しいことにチャレンジするとき、年齢のことはあまり考えないんです。もし何かを始めてそれがうまくいかなかったとしても、それは年齢のせいではない、自分にはその才能がなかっただけのことだと思います。今は、年齢は単なる数字だとしか思っていません。

パソコンに興味を惹かれたのは、あの箱の中にどれくらいのおもちゃが入っているんだろうと、すごくわくわくしたからです。パソコンを買うということは、おもちゃをひとつ買うのではなくて、その中の何百、何千というおもちゃを手にいれるということですし、その可能性を想像したら安いものだと思いました。当時はコンピューターも今よりずっと高価でしたけれど。

私はまだインターネットが一般家庭に普及する前の、パソコン通信の時代から「エフメロウ」(後の「メロウ倶楽部」)というシニアコミュニティに参加していて、そこでたくさんのおじいさまやおばあさまに、いろいろ教えていただきました。その後は、そこで私自身が同年代の人たちに教えたりするようになって、現在も「メロウ倶楽部」での活動は続けています。

若宮正子氏

──若宮さんは81歳のときに、『hinadan』という、スマートフォン用のゲームアプリを開発されました。そのきっかけを教えてください。

若宮 高齢者同士でもスマートフォンのことが話題に上るようになって、話を聞いていくとやはり「年寄りにスマホは使いづらいし、何が面白いのか分からない」っていう話になります。それなら高齢者が楽しめるゲームをつくったらいいんだと、若い知人に「ねえ、面白いアプリをつくってよ」と相談したんです。ところが、その人には「僕らはお年寄りがどんなものを面白いと感じるのか分かりません。若宮さんが自分でつくればいいんじゃないですか」と言われてしまって(笑)。

それで自分でつくり始めることになったわけですが、もちろんプログラミングの知識なんてまるで持ち合わせていなくて。「数学の知識が必要なんじゃないか」という人もいたのですが、実際にやってみて思ったのは、算数ができればなんとかなるということでした。もちろんもっと複雑なプログラミングには、数学や理系の知識が必要になってくるかもしれないですが、私が『hinadan』をつくったときに感じたのは、そうした理系的なスキルではなくて、「物事を順序立てて考える」という思考のほうが重要だということでした。

ダイバーシティに「年齢」の概念を加えた『hinadan』

──とは言え、プログラミングの知識がゼロの状態からアプリの開発をやり遂げるというのは大変なことだったと思うのですが。

若宮 私にプログラミングを教えてくれた先生が宮城県の塩釜に住んでいらして、私は神奈川県の藤沢市に住んでいるので、行き来するのは大変なんです。それで、インターネット電話ツールでやりとりしたり、インスタントメッセージサービスでファイルを共有したりしながら教えていただいたんですけど、とにかく唖然、呆然、びっくりの連続だったようです(笑)。

ゲームとしては、お雛様が12人いて、それを並べる場所が12個あって、その中で、例えばお内裏様をタッチしたら、次はそのお内裏様を置くべき場所をタッチして、それが正解ならポンッという音が鳴って色が変わる──という一連の流れがありますよね。そこまでのプログラミングを1人分つくったあと、私は、残りの11人に対してもそれをコピペしてプログラムとして書き込めばいいと考えたんです。ファイル名を「女雛」とか「官女1」「官女2」とかに書き換えていって。それを見た先生は「なんじゃこれは」と思ったんじゃないですかね(笑)。それでも先生は、「若宮さんはプログラミングの勉強をしたいわけではなくて、このアプリでお雛様がちゃんと動けばいいんですよね?」とおっしゃって、「お雛様が思い通りに動けばいいんだから、このままでいきましょう」って言ってくださったのです。

iPhoneアプリ『hinadan』ゲーム画面

iPhoneアプリ『hinadan』

──その素晴らしいアドバイスのおかげで、『hinadan』は見事完成したんですね。

若宮 カッコ悪くても動けばいいんです。でもアプリをリリースする前に審査があるので、もしかしたら「プログラムの体をなしてない」と言われて却下されてしまうかも、という懸念もありました。でもそのときも、「桃の節句は毎年やってくるものだし、今年だめでもまた来年出せばいいよね」と、そのまま出して。そしたら無事にパスして、リリースすることができました。

──その後は「81歳の高齢者がアプリ開発をした」というニュースが世界中に広まっていき、アップル社CEOとの会談も大きな話題となりました。

若宮 自分がそんなニュースになるとも思っていなかったですし、極めて幼稚なアプリだと自分では思っていたので、まさかアップル社主催のWWDCに呼ばれて、CEOのティム・クックさんとお話することになるとは思ってもいませんでした。「Nice to meet you」なんて挨拶だけで終わるのかなと思っていたのですが、短い時間の中でも、シニアがスマホを使う際の意見を求められたり、有意義な時間でした。

シニア目線でのスマホのユーザビリティや、『hinadan』の画面のフォントサイズの話から画面サイズの話など、極めて初歩的な話ではありましたが、そのときのシリコンバレーにはまだ高齢者目線での発想がなかったのだと思います。ダイバーシティなんていう言葉も最近は普通に耳にするようになりましたが、国籍や性別など、人間の多様性を積極的に受け入れていこうという社会の中でも、シニアだとか若者だとか「年齢」という概念は、まだダイバーシティの土俵で語られていなかったんですよね。

──そこに『hinadan』が一石を投じて、シニアがテクノロジーとどう親しんでいくかというところに目が向けられるようになったということですよね?

若宮 そう思っています。結果的にですが、シニアとテクノロジーという課題に世界が目を向けるきっかけになったと思います。『hinadan』は、ただ高齢者が遊びやすいというだけでなく、子どもや孫、みんなで楽しむことでコミュニケーションが生まれるものであるということもイメージしてつくっていました。スマホの操作は、もちろん若い人のほうが得意だし速いのですが、『hinadan』は、お雛様を正しい位置に並べるという、伝統的な知識が必要なゲームなので、どちらかと言えば高齢者のほうが有利なんですよね(笑)。実際、リリース後には「祖母が私のスマホを取り上げて楽しんでいます」とか「娘と孫と3人で楽しみました」という声をいただきました。

若宮正子氏

「年寄りが若者を助ける社会」を実現させる

──それを契機に、若宮さんの活動はどのように広がっていったのでしょうか?

若宮 アプリ開発以外のところで、シニアがパソコンやテクノロジーに親しむための架け橋になるような活動をしてきました。そのひとつに「エクセルアート」があります。実は今、私が着ているこのシャツの柄も、表計算ソフトを使って自分でつくった柄なんです。

表計算ソフトは、ビジネスなどでパソコンを使いこなす上では必須ですが、高齢者には何の役にも立たないし、面白くもないと思われがちですよね。でも使いこなせたらすごく便利です。じゃあ慣れ親しむために、という理由で「エクセルアート」を始めて、皆さんにも教えるようになりました。そこでつくった柄を印刷してうちわにしたり、私のこのシャツのように生地に印刷して世界でたった1枚の自分だけの洋服をつくったりすることもできます。

高齢の女性には編み物や手芸が好きだという方も多いので、その延長線上にテクノロジーがあると考えてもらうと、意外と親しみやすいはずです。自分が好きなもの、こんなものがあったらいいなという思いを、テクノロジーが実現してくれる時代ですから。自分のやりたいことを実現させるためのツールだと思ってもらえたらいいと思うのです。

若宮正子氏

エクセルアート

「エクセルアート」で描かれた模様を印刷したうちわ

──これは高齢者に限ったことではないかもしれませんが、年を重ねれば重ねるほど、第一歩を踏み出しづらくなります。どうすれば若宮さんのように、ポジティブに新しいことを始められるようになりますか?

若宮 やはり「好奇心」を大事にすることだと思います。小さい頃は誰しも好奇心の塊ですが、大人になるにつれ失われていってしまいます。でも、年齢なんて気にしなくていいと思うんですよね。私はこの前、エストニアに旅行に行ったのですが、一緒に旅をした相棒は、なんと10歳のお嬢ちゃん。将来のアントレプレナーを目指していて、旅費もクラウドファンディングで調達したという行動力のある女の子です。

彼女と二人で話していたのは、これからの時代、年齢が違う者同士がフラットな関係性で話し合うことが重要だということです。結局、男か女かとか、世代の違いなんてことは関係なくて、志を同じくする者同士が一番仲良くできるんじゃないかと思いました。先ほど年齢は単なる数字と言いましたが、彼女のブログにも同じことが書いてありました。「若宮さんは84歳ですけど、対等な友達です」って。

もちろん年齢が違えば体力も違うし、まるっきり同じというわけにはいきません。でも、それ以外のところではもっとフラットな関係性が築けるはずなのに、高齢者のほうが自分で勝手に「年寄り」っていうレッテルを貼ってしまっているのです。もうこれは剥がしちゃいけないって思い込んでいるみたいに。でもそこから自由になってもいい。それこそ、年寄りの持っている経験値が若者のフレキシブルな考え方にプラスされて、より良い社会の実現に貢献できたら、「年寄りは社会のお荷物」なんていう自虐的な考え方もなくなるはずです。「年寄りが若者を助ける社会」になるように、「ジジババ・パワー」をどう炸裂させるか。それがこれからの課題だと思います。

「人工知能」も、まだまだ育ち盛りの子ども

──「人生100年時代」にあって、テクノロジー、AIの存在は必要不可欠です。高齢者はどのようにそれらと向き合っていけばよいでしょうか。

若宮 少子高齢化の時代ですから、要介護の状態になったとしても、全ての人がお子さんやヘルパーさんに介護してもらえるわけではなく、極力テクノロジーに頼らざるを得ない時代になりました。ですから、早くからテクノロジーやAIとお友達になりましょう。ロボットは嫌味も言いませんし、何かをお願いするとしても気兼ねはいりません。

私も自宅にAIスピーカーを導入していますが、「エアコンを23度にして」ってお願いして、でも寒くなってきたから「やっぱり27度にして」っていうと、AIは「はい、27度にします」って、何の文句も言わずにやってくれます。これが息子や娘が相手だったら「だから最初から27度にすればよかったのに」とか、「何度も呼ばないで」とか、嫌味のひとつも言われてしまうでしょう?(笑)。逆にAIは学習能力が進化して、「この人は今23度って言ったけれど、すぐ寒くなって27度にするから、とりあえず25度くらいで様子を見よう」なんて、はじめから最適温度を提案してくれるようになるかもしれません。

このところデイサービスなどでロボットを導入して、高齢者に触れ合ってもらったりするところも増えてきていますよね。ロボットは「こんにちは、花子さん」とか、自分が呼んでほしい名前で迎えてくれます。これも、初めて会うヘルパーさんなんかには、なかなかお願いしづらいことだったりします。ある男性の方は、ロボットに「社長」って呼んでもらって喜んでいました。後で奥様にお聞きしたら「実はうちの人は副社長までで定年を迎えたんです」っておっしゃっていて。ちょっと切ないけど、いい話だなあと思いました。

若宮正子氏

──IoTデバイスが普及していくことによって、テクノロジーは医療を変えるとも言われています。若宮さんが、ヘルスケアの分野でテクノロジーに期待するのはどのようなことですか?

若宮 例えば、「街に専門医がいないから、やむを得ず遠隔医療に頼る」のではなく、「最高度の技術を用いて検査し、地元にはおられない名医に診てもらう機会を得る」のが遠隔医療の在り方だと思います。遠隔医療によって居住地に関わらず誰もが最適な医療を受けられる社会は実現に近づきますが、そのサービスを受けるためにはどうしても「情報力」が必要です。こればかりは、人間が備えておくべき力なのだと思います。

高齢によって体が不自由になったり、視力・聴力が低下してもテクノロジーが助けてくれます。それによって、もっと高度な社会参加が可能になります。けれどそのためには、「情報の力」が必要です。そして「人間力」。これからはAIと二人三脚の時代。その二人三脚で転ばないようにするためには、相手をよく知ることです。相棒に対して自分がどう合わせていくか、それを考えるのは人間です。その「人間力」を持つことで初めて良いチームになるのでしょう。子どもたちにもよく伝えていることなんですが、「人工知能だって、まだまだ子どもなんだ」と。まさに今、育ち盛りの子どもなんですよ。

TEXT: 杉浦美恵

若宮正子(わかみや・まさこ)

1935年東京都生まれ。高校卒業後、銀行に勤務。58歳からパソコンを独学で習得し、2016年からiPhoneアプリの開発を始める。2017年にゲームアプリ『hinadan』を公開すると、米アップル社の世界開発者会議に特別招待され、CEOから最高齢プログラマーとして紹介され一躍注目を集める。「人生100年時代構想会議」に選出。著書に『独学のススメ 頑張らない!「定年後」の学び方10か条』(中央公論新社)など、『老いてこそ デジタルを』(一万年堂)が2019年11月に刊行予定。

オスのガ(蛾)が、メスの出すフェロモンの匂いをどこまでも追って行く――ファーブル「昆虫記」の中の有名な実験である。
それから120年。東京大学先端科学技術研究センター所長の神崎亮平教授のチームは、昆虫が進化により獲得した知能(生物知能)を再現して活用するため、カイコガの脳の精密な神経回路モデルをスーパーコンピューターに再現した。そして昆虫自身が操縦するロボットや、脳が作り出す信号でフェロモンを追うロボット「サイボーグ昆虫」を作り出した。
昆虫の脳は、人の100万分の1しかない。にもかかわらず、何kmも離れた匂いに向かってまっしぐらに素早く行動する。移動中に衝突をすることもない。その驚きの能力を生かそうというわけだ。神崎教授らはさらに、昆虫が持つ匂いを検出する触角のしくみを再現することにより、特定の化学物質を検出しそれを探し出すカイコガ「警察昆虫」や、特定の匂いを検出するとピカッと光る細胞「センサー細胞」を遺伝子工学の技術を活用して開発を進めている。
「昆虫はきわめて省エネで、高効率な問題解決能力を何億年もの進化の過程で獲得しました。AIでも難しいことを、本能的に簡単にやってのけます」と言う。こうした私たちがまだ知らない、進化のなかで獲得されてきた昆虫の能力の活用は、人にも環境にもよりやさしい「課題解決の方法」の宝庫だ。SDGs (持続可能な開発目標)にもかなう発想である。このようなアプローチは、これまでにない新しいモノづくりの方法になるだろう。
さまざまな可能性に挑戦する神崎教授に、私たちが知らない驚異の昆虫の能力と、今後の研究開発の方向、展望などについて伺った。

昆虫はヒトの100万分の1の脳で情報処理し、素早く行動する

――先生は、「昆虫研究によって『新しい価値』を見出す」と述べておられます。昆虫の「新しい価値」とはどのようなものでしょうか。

神崎 地球上に生息する生物は約180万種で、ヒトはそのうちの1種です。全体の50%を超える100万種が昆虫で、地球上のさまざまな環境で生息し、そこでの課題を解決して生きています。
彼らが進化の過程で身に付けた能力は実に豊富です。例えば、ガはメスの出すフェロモンという匂いを遠くから検知して探索します。ハチは仲間同士で顔認識をします。コオロギは1度けんかして負けた相手とは2度とけんかしません。個体識別ができるわけです。ショウジョウバエやトンボは、高速で群れて飛び回っても衝突しません。視力は0.01以下、立体視もできないにも関わらずです。
こうした昆虫が、いったい環境下のどのような情報を使って、どのように処理し、そのような能力が生まれるかは重要で、われわれがまだ知らない環境下の情報を使っていることが多く、新しい価値をそこに見出すことができます。これを人や環境に優しい新しいモノづくりに活用することができるわけです。

昆虫に着目する大きな理由は、その能力を生み出す脳のサイズです。ヒトの脳の神経細胞(ニューロン)は約1000億個ありますが、昆虫は100万分の1の10万個ほどしかありません。さまざまな環境下の情報を1㎜にも満たないような小さな脳で情報処理をして素早く行動することです。
高度に進化した生物ほど脳の構造が複雑になり、そのしくみを解析するのは大変ですが、昆虫の脳のサイズですとスパコン上に神経回路を精密に再現することも、さらには最新の遺伝子工学により神経回路を精密に分析することもできるようになり、脳をニューロン1つ1つから再構築できるようになってきました。昆虫の不思議な能力を再現して使える時代を迎えたわけです。

――カイコガを生物知能の研究対象に選ばれた理由は何でしょうか。

神崎 カイコは絹を作るので、「おかいこさん」といって昔から身近な存在でした。1970年代まではカイコを飼育する養蚕農家が全国にたくさんありました。また、遺伝学の研究では、日本特有の材料でした。カイコガ(写真1)はボンビコールという名前の付いたフェロモンの匂いが触角で受容されると反応し、完璧に行動するという性質があります。ボンビコール1種類の刺激だけで行動が起こるので、動物が行動を起こす感覚や脳のしくみを明らかにするうえで優れたモデルになるのです。このフェロモンが最初に発見されたのはカイコガで、ドイツのノーベル賞学者が1959年に化学構造を決定しました。
高校の生物の教科書では、動物の行動のしくみを学ぶ理科実験にカイコガを使うことが勧められています。高校の先生と協力をして、カイコガが行動する時の神経や筋肉から出る電気信号を計る装置を3000円くらいで作るプロジェクトを始めています。全国の高校に広めていきたいと考えています。ぜひ支援を願いします。

オスのカイコガ

写真1:オスのカイコガ  写真提供:神崎亮平所長

昆虫が生きる環境世界は、ヒトとは異なる

――先生は昆虫の環境世界(脳内に構築される外界の世界)は、ヒトとは異なると述べておられます。具体的にどのように違うのか、なぜそういう現象が起きるのでしょうか。

神崎 環境世界の違いを「感覚」「時間」「大きさ」の3つに分けてお話ししましょう。
まず「感覚」ですが、昆虫の目は複眼で、視力は0.01以下しかありません。さらに眼の構造上、私たちのようには立体視ができません。目が悪くて、立体視もできないような世界でありながらも、飛んでいる虫を自分も飛びながら捕らえ、障害物をサッと避けることができるのです。
逆に私たちが検知できない偏光を見ることができます。偏光は青空ではあるパターンで分布します。昆虫はこのパターンから、たとえ太陽が雲間に隠れて見えなくても、その方向がわかります。この能力によって、太陽と巣箱と餌場の関係から、自分の巣やエサ場に飛んで行くことができます。

「色」はどうかというと、ヒトは青から赤までの色を見分けますが、昆虫は私たちが色としては見えない紫外線も色として見ています。黄色い菜の花は、紫外線が見えるフィルターを通してみると、中心の蜜がある部分が黒く見えます。昆虫は特に複雑な情報処理をしなくても蜜のありかがわかるのです。AIの助けは必要なく、生まれながらにそのような機能を進化の中で身に付けたわけです。モンシロチョウのはねは、私たちの目にはオスもメスも白く見えますが、同様に紫外線が見えるフィルターを通して見ると、オスのはねは真っ黒、メスは真っ白です。彼らにとってオス、メスの区別は一目瞭然なのです。

「時間」については、光が毎秒50回以上点滅するとヒトは区別できませんが、ミツバチはなんと300回以上の点滅を区別できます。ミツバチは1秒間に250回程度、ブーンと羽ばたきますが、羽ばたきの1回1回が、お互いに見えている可能性があります。群がっていても衝突しないのは、そのような高速な視覚の情報処理によると考えられます。このようなしくみはクルマの衝突回避にぜひ使ってもらいたいです。

「大きさ」ですが、体長が小さくなると、表面積は2乗(たてxよこ)、体積は3乗(たてxよこxたかさ)で小さくなります。このため、体積に対する面積の割合は身体が小さいほど大きくなります。すると、面で効く力、摩擦力や空気の粘性力は、相対的に大きくなります。体長1mmのショウジョウバエにとって、空気はネバネバしたものになります。ハチミツの中にドボンと浸かっているような感じです。

私たちを取り囲む外界(環境)にある物理化学的な信号はもちろん同じですが、ひとたびその信号が生物によって感知されると、生物によって感覚器(センサー)の性能が違うので、検出できた信号を使って脳の中につくられた外界の世界(環境世界)は、生物によって異なってくるのです。生物にとっての環境世界は生物の種類によってそれぞれ異なり、ヒトとはだいぶ違うのです。

生物は外界からそれぞれの生物にとって重要な情報を、その生物が持つ独自のセンサーを使って検出し、脳で処理をして行動します。繰り返しになりますが、環境下にはまだわれわれが知らない情報が潜んでいるわけで、自然がつくり上げてきた価値を生物から見出すことができるのです。

神崎亮平所長

科学技術は、AIの次の知能である生物知能を生かすこと

――カイコガはフェロモンに瞬時に反応して行動を開始します。脳内ではどのような情報処理が行われているのでしょうか。ヒトとの違いを説明していただけますか。

神崎 カイコガのメスのフェロモンはお尻の先にあるフェロモン腺でつくられます。そこから放出されたフェロモン(ボンビコール)が風の流れに乗ってオスの触角に届くと、触角にある匂いセンサーにとらえられます。ボンビコールに反応するセンサーには、ボンビコールのみに結合するボンビコール受容体というたんぱく質があります。ボンビコールが受容体と結合すると受容体を通してセンサー内にCaイオンが流れ込み、センサーが信号(活動電位)を発生します。その信号が脳に流れ、さまざまな処理がなされ、最終的に前運動中枢という特別な場所に伝えられます。この場所にある神経回路でカイコガがフェロモンを探し出す行動を起こす命令が作られ、胸部や腹部に伝わり、あしやはねが適切に動くわけです。

脳のしくみはどの生物も基本的に3つのしくみからできています(図1)。1つ目は、生まれながらに持っている生得(本能)的な行動を起こす命令を作るしくみ(第1階層)、2つ目が、情動・記憶行動を起こすしくみ(第2階層)、3つ目が特に人に特徴的ですが、認知など高度な行動を起こすしくみ(第3階層)です。

生物の脳の基本的な構造図  資料提供:神崎亮平所長

図1:生物の脳の基本的な構造図  資料提供:神崎亮平所長

神崎亮平所長

昆虫の場合、脳のしくみは比較的簡単で、第1と第2階層が中心となります。カイコガの匂い源探索の行動もこれらのしくみによって起こります。一方、ヒトの脳は第3階層がとても発達しており、推論や未来予測、計算をするのが得意なわけです。
現在盛んに行われているAIは「脳のしくみを模している」と言われますが、主に第3階層を対象にしていると思います。片や、生物が進化の過程で環境との相互作用により磨き上げられたのが第1、第2階層ですが、この階層はAIは対象にはしていないようです。

重要なことは、これまでの科学技術はこの第3階層が生んできた、課題に対して最適な解を求めるというものです。そしてその恩恵により現在の人類の発展があるわけです。しかし、最適解を求めるがゆえに、人類が生んだ科学技術がさまざまな格差や自然環境に悪影響を与えてきたことも否めません。一方で、第1、第2階層による問題解決法は、人以外の多くの動物が使用してきた方法で、自然と一体化した進化により獲得された手法です。ヒトは第3階層が発達した結果、自然界から乖離した生き方を選択したとも言えます。私はそこに現代の科学技術の課題があると思っています。頭(脳)で考えて最適な答えを出すだけではなく、長い進化の中で獲得してきた本能的な課題解決法をもっと活用する必要があると考えています。それに応えてくれるのが、地球上のあらゆる環境下で生息し、環境下で起こるさまざまな課題を本能的に解決する昆虫なわけです。その解決法は、人や環境に優しい手法を提供してくれると思います。

――先生が開発された「昆虫操縦型ロボット」や「サイボーグ昆虫」は、世界を驚かせました。そのメカニズムを説明していただけますか。

神崎 「昆虫操縦型ロボット」(写真2)は、空気で浮上しているボールの上にオスのカイコガを乗せ、カイコガ自身に移動ロボットを操縦させる装置です。このようなロボットを使って、昆虫がどれくらいの能力(生物知能といってよいと思いますが)を持っているかを試したのです。
ロボット上のカイコガがフェロモンを検知して動きだすと、玉乗りのようにボールが前後左右に動くので、回転を光学センサーで計測して、その信号でロボットを動かします。するとロボットはカイコガが動いたのと同じように動くわけです。カイコガはロボットを操縦して見事にフェロモン源にたどり着きます。

これまでのロボットは想定外のことが起こるとよく止まってしまいますが、そのような状況下で、生物であるカイコガはどれくらいの能力(生物知能)を発揮するかを次に調べてみました。このロボットの片方の車輪の回転速度をもう一方の4倍に設定して同じ実験をするわけです。この状態ではたとえカイコガはまっすぐ歩いても、ロボットはぐるぐると回ってしまい、カイコガにとっては想定外の動きが起こります。このような異常な動きがロボットに起こった時、カイコガはどのように判断しロボットを動かすかを試したのです。
なんとカイコガはロボットの異常な動きを複眼を使って察知し、ロボットの異常な動きをリアルタイムで補正しながら、匂いの源を突き止めたのです。このロボットは世界中で有名になりました。大きさわずか1mmの脳でこれだけ難易度が高い仕事をこなしている。まさに「昆虫、恐るべし!」です。このような能力は、昆虫のセンサーや脳の働きで起こります。昆虫のセンサーや脳のしくみを再現してロボットに搭載すれば、かなり賢いロボットができることになるわけです。

昆虫操縦型ロボット

写真2:昆虫操縦型ロボット  写真提供:神崎亮平所長

カイコガの匂いを探す命令は脳で作られます。脳で作られたどの信号が匂い源探査の命令かを調べるために、命令を運ぶニューロンの信号を記録して、その信号で動くロボットを作りました。これを「サイボーグ昆虫」(写真3)と呼んでいます。カイコガの匂いセンサーである触角と脳がある頭の部分だけをロボットに載せ、身体は移動ロボットと置き換えたわけです。このような脳の信号で動く「サイボーグ昆虫」を使うことにより、脳で作られたどのような命令が匂い源探索の命令であるかが明らかになったのです。後でも述べますが、この命令は脳内の神経回路により作られます。その回路を明らかにし、その神経回路モデルで移動ロボットを動かせば、これまで誰も達成していない匂い源探索ロボットができることになります。

サイボーグ昆虫

写真3:サイボーグ昆虫  写真提供:神崎亮平所長 

空港で違法薬物を検知する「警察昆虫」

――こうした昆虫の嗅覚の能力を生かした「警察昆虫」、「センサー細胞」について説明していただけますか。

神崎 特定の匂いを検出し、その発生源を探し出すことは非常に重要です。例えば、被災地で生き埋めになっている被害者の救出、爆発物、麻薬などの検出は、安全安心にかかわる重要な仕事です。ただ、現状は、そのような特定の匂いを高感度で検出できる工学的なセンサーはなく、さらには昆虫のように匂い源を探索するような優れたアルゴリズムもない状況です。そのような状況下で昆虫の嗅覚能力が注目され、昆虫の匂いセンサーや脳のしくみを再現する研究が急速に展開しています。その背景には、遺伝子工学やスーパーコンピューターなどの長足の発展があります。

先ほど言いましたように、カイコガの触角にはフェロモン(ボンビコール)に反応する匂いセンサー(ボンビコール受容体)があり、このセンサーがボンビコールを検出すると匂い源探索行動が起こります。
そこで、もしこのセンサーをボンビコール以外の特定の匂いに反応するように変えることができれば、特定の匂いをフェロモンだと思って探し出すカイコガができることになります。そのような技術が、遺伝子工学により可能になったのです。こうした改変を行ったカイコガを「警察昆虫」と呼んでいます。2011年に最初の「警察昆虫」を作ることに成功しました。コナガというカイコガとは違うガのフェロモンの匂いを検出する嗅覚受容体がわかったので、その受容体をカイコガに導入した「警察昆虫」を作りました。するとカイコガは、見事にコナガに反応し、それを探し出したのです。

夏場、水道水のカビ臭が大きな社会問題になりますが、これは水源であるダム湖などに発生するアオコ(微細藻類)が原因で、それが発するジオスミンという匂いが、カビ臭の要因の1つになっています。ジオスミンだけに反応する嗅覚受容体を持つカイコガの作出にも成功しました。高額な分析機器より感度が良いこともわかりました。

警察昆虫は将来的には、国際空港などでの違法薬物の検出に使えるかもしれません。違法薬物を隠し持った人がやって来ても、その薬物に反応するカイコガを遺伝子改変で作れば、その人物を特定することも可能になるでしょう。このような物質の計測機器は非常に高額ですが、警察昆虫ですと1匹5円ほどですみます(笑)。警察犬と警察昆虫が共同作業する日がくるかもしれません。

また、遺伝子工学技術を使えば、特定の匂いに反応する嗅覚受容体を細胞に導入し、特定の匂いを検出するとピカッと光る匂いセンサー、これを「センサー細胞」と言いますが、そのようなセンサーを作ることもできるようになりました。このセンサー細胞を利用した簡易検出キットは現在、製作を急いでいるところです。

神崎所長

生物が進化の中で獲得した問題解決法をモノ作りに生かす

――スーパーコンピューターに昆虫の神経回路モデル(写真4)を構築しておられますが、脳が再現できるのは驚きです。

神崎 昆虫の脳は1㎜くらいと小さいので、顕微鏡を使って脳全体を見ることができます。微分干渉顕微鏡といって、脳内の構造をコントラストを上げてみることのできる顕微鏡がありますが、それを使ってカイコガの脳を見ると、神経細胞(ニューロン)の細胞体という場所が1つ1つ観察できます。そこで、目的とするニューロンを決めて、それ目指して直径が1万分の1ミリのごく細いガラス電極を刺して、そのニューロンから反応を計測し、電極に入れた色素を注入することで、形を調べることができます。そのような1つ1つのニューロンの情報をデータベースに登録しています。これまでに約1600個のニューロンの情報が登録されました。そして、そのデータを使って、1つ1つのニューロンから神経の回路を、ジグソーパズルを組み上げていくようにして再現していきます。

ニューロンは非常に複雑な形をしており、たくさんの個所(シナプス)でつながっているので、神経回路はものすごく複雑な構造になります。そのような複雑な神経回路の働きをシミュレーションするには、膨大なデータをリアルタイムで処理できるスーパーコンピューターが必要になってきます。
そこで私たちはこのような複雑なニューロンの形を再現した神経回路のシミュレーションを行うプラットフォームをスーパーコンピューターに作りました。世界最速レベルでのシミュレーションができるプラットフォームを私たちの研究室で構築したのです。 

神経回路モデル

写真4:スーパーコンピューターに再現した神経回路モデル   写真提供:神崎亮平所長

昆虫の脳をニューロン1つ1つから再構築し、シミュレーションを通して、機能を理解する。また、その神経回路のモデルによってロボットを動かすことになります。これまで、匂い源探索を行うロボットを制御するアルゴリズムは、人が考え、トップダウンで作成していました。ところが、複雑に変化する環境下で匂いがどのように分布しているかもわからないなかでは、そのような手法はうまくいきませんでした。AIにそれを解決させようにも、匂いのセンサーがないので、適切なデータを与えることができず、たとえAIでもその解を出すことは難しいわけです。

一方、すでにご紹介してきたように、昆虫は特定の匂いを検出し、数キロにわたる匂い源探索を実現しています。また、私たちの研究から、昆虫の匂い源探索を行う命令をつくる神経回路も明らかになってきました。また、そのような神経回路を個々のニューロンから再現し、スパコンでシミュレーションすることもできるようになってきました。そのような結果から得られた、あるいは推定した神経回路モデルをロボットに搭載することで、昆虫のように匂い源探索ができるロボットが誕生しようとしています。このようにこれまで人が考えた方法ではなく、進化の中で獲得された生物知能を使って、われわれの課題解決に利用する工学があってよいと考えています。
前述しましたが、第1、第2階層のしくみを再現し、それを活用する新しい工学が、生物学、遺伝子工学、情報学、ロボット工学の融合から始まろうとしているのです。このような手法は、人にも環境にもより優しいものになると考えています。

神崎所長

アートやデザインも包含した異分野融合を進める

――先生の研究には神経科学、遺伝子工学、コンピューター、ロボットなど多彩な専門家が参加しておられます。先端研で生み出される異分野融合について、お考えをお聞かせください。

神崎 先端研は32年前に設立されましたが、設立の目的は、人と社会の安寧のための新しい科学や技術の新領域を開拓することにあります。言い方を変えれば、これから先の人や社会の在り方、ビジョンを常に考え、その実現のためにチャレンジを続けることにあります。その実現のため、工学、情報学、理学、医学などの理系、社会科学などの文系、さらにはバリアフリー分野を1つの研究所に集約させるという奇抜な発想のもと設立され、わが国を代表する学際的な研究所のさきがけとなっています。

最先端の科学や技術に日々接する中、最適な解を求めるこれまでの科学や技術の在り方に少々違和感を持ち始めています。多様な人々が暮らす中で、最適な解は確かに一部の人を幸せにするかもしれませんが、多くの幸せからは遠くなります。2030年を目指した持続可能な開発目標(SDGs)が、No one left behind(誰一人取り残さない)を理念として国連から提出されました。
もちろんこれまでの科学技術の恩恵により、現在の人類の発展があることも事実です。しかし一方で、最適解を求めるがゆえに、人類が生んだ科学技術がさまざまな格差や自然環境に悪影響を与えてきたことも否めません。多様な人や複雑な自然との太刀打ちは容易ではなく、その限界があらわになってきたのです。これまでの科学技術をいかにして多様な人々、さらには社会(インクルーシブな社会)の安寧に貢献できるように軌道修正するかは大きな課題です。

これまでの科学技術が多様な解を出せなかった理由の1つに感性の問題があると考えています。科学技術は人の思考により作られたものです。別の言い方をすれば、頭、脳で考え出されたものです。すでに述べましたが、“脳”というのはいくつかの働きを持っています。記号や言語を使って、まさに科学技術をつくりあげることができる働きが1つです(第3階層)。

あと1つは、言語化あるいは数式などで記述する記号化は難しいのですが、アートなど感性の働きがあります(第2、第3階層)。別な言葉で言えば、生まれながらに私たちに備わった生物としての働き、さらに言うと、生物の長い進化の中で環境との関係において築き上げられた働きです。人はこの2つの働きが適切なバランスで融合することで、日々の生活を営んでいます。それにより多様な人々そして社会が築かれているわけです。従って、科学技術の脳だけを使って多様性から生まれる課題を解決することは必然的に難しくなります。また、昨今、科学技術における倫理問題が取りざたされますが、これも科学技術を生む脳だけではなく、感性の視座、本来の人としての在り方の視座から再考する必要があると思います。

先端研では、アートあるいはデザインといった感性の視座を科学や技術に取り入れるとともに、そのような精神性・倫理性をもって、多様な人々・社会から生まれる課題解決にチャレンジしています。このような背景の中、先端研内に「インクルーシブデザインラボ」を設置しました。多様な人々と社会をつなぎ、誰もが活躍できるサステイナブルな社会の構築に先端研の研究環境や人的ネットワークを最大限に活用しチャレンジしていくラボです。

私の研究も、まさに自然が進化の過程で作り上げ、生まれながらにして備わった生物知能を再現して生かす研究ですが、先端研の運営にあたってもそのような考えが根本にあり、それが私を後押ししてくれているのです。

神崎所長

TEXT:木代泰之

神崎亮平 (かんざき・りょうへい)

東京大学先端科学技術研究センター所長/教授。
●専門は、神経行動学。カイコガのフェロモン源探索行動の研究や、昆虫制御型ロボット(サイボーグ昆虫)、スーパーコンピューターによる大規模脳シミュレーションなどで知られる世界的な生物学者。
●経歴: 和歌山県橋本市出身。1986年筑波大学大学院生物科学研究科博士課程を修了。 アリゾナ大学神経生物学研究所博士研究員、筑波大学生物科学系助手、講師、助教授を経て、2003 年同大学教授。2004 年より東京大学大学院情報理工学系研究科教授、2006 年より東京大学先端科学技術研究センター教授。
2016 年より東京大学先端科学技術研究センター所長。2019 年ミラノ・ビコッカ大学名誉学位。
●受賞: 日本比較生理生化学会学会賞、日本ロボット学会論文賞、日本神経回路学会最優秀研究賞、JSPS ひらめき☆ときめきサイエンス推進賞、橋本市文化賞など受賞多数。

佐藤正和氏

NHK・Eテレ制作の子ども向け哲学番組『Q~こどものための哲学』は、小学3年生の少年Qくんが日常感じているさまざまな疑問、不安や願望について、ぬいぐるみのチッチや友達と「対話」しながら自分なりの答えを探求していく人形劇だ。

番組プロデューサーの佐藤正和氏は、社会においても教育現場においてもダイバーシティやインクルージョンが重要視されている現在、めざすべき共生社会を実現するのに必要なのは、お互いを理解しあうための「出会いの場」をつくることだと語る。この10月から『Q〜こどものための哲学』レギュラー放送を控える佐藤氏に同番組制作の背景や、メインの視聴者である子どもたちを共生社会へ導く取り組みについて伺った。

 

未来への不安から生まれた『Q~こどものための哲学』

――佐藤さんはこれまで『シャキーン!』や『デザインあ』『ノージーのひらめき工房』などの番組を立ち上げてこられました。『Q~こどものための哲学』もその一つです。番組制作の動機をお聞かせください。

佐藤 『Q』の第1回を制作したのは5年ほど前です。その頃の僕は教育番組の作り手として、どういう番組を作ればいいのだろうかという不安を感じていました。教育とは、まず目指す未来があって、今これをやらないといけない、と逆算するものだと僕は思います。でも、最近の世の中を見渡すと、未来に対する不安というものが蔓延していて、みんなが幸せになるためのゴールを見出せずにいる。大人ですらゴールが見えないのに、子どもにどういう教育番組を見せればいいのか。

そう考えたとき、ゴールが見えない今の時代で、これまでにない新しい価値や仕組みを創造していくには、自分だけでなくまわりも納得する解を導き出す力と、そこに行き着くためのメソッドや哲学的思考プロセスが必要ではないかと気づきました。だったら、そういったメソッドや考える力を育む番組を作ればいい。そこで生まれたのが『Q』でした。

ここで言う「哲学」とはいわゆる古典的な哲学ではなく、自分が単純に「不思議だな」と思ったことについて立ち止まって深く考える手法です。先人が考えたことをただ知識として学ぶのではなく、先人が考えたようなことを今、問い直そうということなのです。「子どもと哲学」という題材は海外では割とスタンダードなのですが、真面目で学習要素の強い番組が多い。もうちょっと親子で笑えて、自分の頭で深く考えられるような番組は作れないものかという気持ちが以前からあったので、これを機にやってみようと思ったのです。

Qくんとチッチ

『Q〜こどものための哲学』のメインキャラクター、Qくんとチッチ (C)NHK

――番組の特徴である「対話」という形式もそのときにできたものだったのでしょうか。

佐藤 企画段階の頃、ある団体が主催する「子どもと哲学」のワークショップに参加してみました。そのときのテーマは「こどもの日はあるのに、なんでおとなの日はないの」というもので、下は5歳児から上は小学6年生までの子どもと親たちが、それぞれ円になって話し合いました。話してみると、子どもたちが意外と深いところまで考えていることが分かったり、自分の子ども時代がよみがえってきたりして、こういった「対話」を番組にできたらおもしろいなと思ったのです。

子どもというのは日々「なぜ?」を繰り返しています。とくに幼少期は知識がないぶん自分の想像で埋め合わせをしていく。僕も小さい頃、庭で穴を掘って遊んでいて、「このまま掘ると、あと一掻きでマグマが溢れ出てきて火事になるのでは」と本気で心配したことがありました(笑)。その頃の僕は、地球の下には熱いマグマがあることは知っている。だけど、どれくらいの深さにあるかは知らない。そういう、「知識がないからこそ生まれる想像力」は豊かだし、おもしろいですよね。対話という場は、アウトプットすることによって子どものイマジネーションを育ててもくれるし、これまでそういう番組はなかったので、これはやる価値があるだろうと企画を進めました。

佐藤正和氏

――番組で生身の人間ではなく、人形を起用することに何かメリットはあるのでしょうか。

佐藤 人形劇にしたのは第一に子どもが見やすくするためです。かわいいキャラクターが登場すれば子どもも見ようという気になるし、大人も構えないで済みます。それと、人形なら暴言を吐いても許されるところですね(笑)。「対話」を進める中で議論を深めるためには「極論」が必要です。一回思いきり極端なところに話を振らないと、考えるベースが広がっていかない。だからQくんみたいな無茶苦茶なことを言う子が必要になるのです。

ただ、生身の人間に意見を言わせると炎上が怖くてみんないいことしか言わないかもしれないですよね。しかし、人形にすればその心配はありません。ファシリテーター役のチッチにしても、理路整然としたクリティカルな思考の持ち主ではなく、どこか抜けている。でも、そういうキャラクターだからこそお説教っぽくならず、聞いている方も素直に聞けるのです。

「対話」から生まれる連帯感が共生社会につながっていく

――番組では、「Thinking Deeply(一つのことを深く考えること)」を前提に、Qくんとチッチが「なんで勉強しなきゃいけないの?」「ふつうってどういうこと?」といった「本日のぎもん」について、「なんで?」「ほかの考えは?」「立場をかえたら?」といった「Qワード」を使って答えを探っていきます。他にも友だちのポッくんやルルちゃんが加わってみんなで話し合う回もあります。こうした対話にはどんな良さがあるでしょうか。

佐藤 「議論」や「討論」がすでに自分の中にある答えを主張しあうものだとしたら、「対話」はまだお互いに見えていない答えを「なんだろうね」と言い合いながら探していくものです。みんなで一緒に深海に潜っていくようなイメージですよね。そして海の底にある光を見つけてみんなで感動するように、対話で見つけた答えは、みんなで唸りながら考えた結果だから、だいたいみんな納得するんです。さらに、仮に答えが出なかったとしても「Thinking Deeply」の時間をともにすることで連帯感が生まれる。これが対話の良さなのです。

Qくんとチッチ

(C)NHK

Qワード

番組内で提示される「Qワード」を用いながら対話を進めていく (C)NHK

――毎回のテーマや内容はどのように決められているのですか。

佐藤 まずはブレスト会議で、自分が小さい頃に抱いていた、もしくは自分の子どもが今抱えている疑問などを出し合ってテーマを見つけていきます。子どもたちに考える楽しさを知ってもらう番組なので、子どもたちが考えたくなるネタとはどんなものだろうと、そこを中心に探っていくのです。

たとえば、「みんな“ウンコ”で笑う。僕も君も笑っちゃう。でも、毎日トイレで自分のウンコを見てそのときは笑わない。なぜだろう?」というように、子どもが知りたいと思う気持ちに寄り添ってテーマを絞ります。それが決まると、今度は僕が簡単な構成を考えて、脚本の古沢良太さんやディレクター陣と「この疑問だとこういう展開でこういう答えが出てくるよね」と時間をかけて話し合います。そこで話し合ったことを古沢さんがシナリオにするといった流れですね。

――番組のスタッフも対話をしながら番組を作っているわけですね。

佐藤 さっき言った「みんなで一つのことを深く考えていると連帯感が生まれる」というのは、実際に自分たちが番組制作を通して経験したことでもあります。今、世の中は、「ダイバーシティやインクルージョンといった考え方が大切だ、みんなで共生社会をめざそう」という方向に進んでいますが、実際の我々は、外見や服装から「この人とは友達にはなれないな」と判断したりしている。でも、そういった人とでも一つのテーマで対話をしていくと連帯感で結ばれていくのです。この心地よさ、ピースフルな感覚って一体何だろう?と。そういった意味で、共生社会を築く上で対話は非常に大事なものだといえるでしょう。

結論は「今のところの答え」でいい

――子どもたちに対して番組が果たす役割にはどのようなものがあるでしょうか。

佐藤 思考力や対話力を育むことを目的とした番組ですので、子どもたちには「深く考えることのおもしろさ」を知ってもらえたら嬉しいですね。

それと、伝えたいのは「答えは決して一つじゃないんだよ」ということ。答えは一つじゃないし、変わったっていい。なぜなら人間は経験値を得て考えを変えていくものだからです。人は考えることをやめたら進歩が止まってしまうし、考えつづけることで答えも変わっていきますよね。

ダイバーシティやインクルージョンというのは言ってみれば交わりです。大人の社会では首尾一貫していないと許してくれないし、みんなかたくなに自分の主張してきたことを守ろうとするけど、それでは対立軸ばかりできて少しも交わることになりません。だから子どもには「考えが変わってもOKなんだよ。それが当たり前なんだよ」ということを知ってほしいし、それを世の中のスタンダードにしたいと思っています。番組でも最後にQくんが「ぼくの今のところの答え」と言います。この先また答えは変わるかもしれない、それでいいんじゃないの?と言っているわけです。

佐藤正和氏

――『Q~こどものための哲学』はこれまで20本が制作されています。番組に対する視聴者からのフィードバックはありましたか。

佐藤 放映するたびに「親子で話が深まってよかった」とか「子どもの考える力を見くびっていた」といったご感想を電話やメールで頂戴しています。教材に採用してくださっている学校も少なくありません。

先日も岡山県にある小学校を訪ねる機会がありました。その小学校では、黒板に「Qワード」を常に目につくように貼っておいて、6年生のクラスで1年間を通じて「いじめをなくすにはどうすればいいか」「掃除に参加しない子がいるけど、参加してもらうにはどうすればいいか」といったことについて対話を重ねてきたというのです。学芸会でも「子育てって楽しいの?」というテーマの対話劇を上演したそうです。子どもたちが親の立場になって考えてみるといった内容に、観ていた保護者の中には「そこまで考えていてくれたのか」と涙を浮かべた方もいたといいます。

僕が訪問したのは3学期の卒業式前で、そのときは「佐藤さんが来てくれたから」と、「なぜ卒業式をするの?」というテーマで対話をしてくれました。「卒業式というのは次のステージに進むための一つの区切りで、その区切りがあるからこそ、それまでの自分を振り返ることができるし、感謝の念も芽生えてくる、だから卒業式はした方がいい」といった話を聞いていると、この対話の時間そのものが実り豊かな時間なのではないかと思えました。このクラスでは1年間の対話を通じてクラス全体がすごく仲良くなったし、それまで発言が苦手だった子が積極的に発言できるようになったそうです。

番組をインクルーシブな「出会いの場」にしたい

――佐藤さんは他にも、発達障がいなどの困難がある子どもの特性を紹介する『u&i』などの番組を制作されています。

佐藤 『u&i』は多様性への理解を深めるための番組をということで企画しました。こちらも子どもと妖精の対話劇で、困難のある友だちの“ココロの声”に耳を傾けながら、その悩みや特性を知って、どうしていくのがいいか考える力を身につけていくといった内容となっています。

去年はNHKが発達障がいキャンペーンをやったこともあって、この『u&i』のスピンオフ番組として『ふつうってなんだろう?』という2分間のアニメシリーズも制作しました。世の中には識字障がいや学習障がい、感覚過敏、自閉症などいろいろな発達障がいの方がいる。その当事者自身を投影したアバターが、その症状を説明していくという番組です。実は最初は当事者の方へのインタビュー映像による構成を考えていたのですが、カメラがあると構えてしまってどうしても本当の気持ちが出てこない。そこでアニメという手法をとってみました。

驚いたのは、インタビューのときは取材する側と取材される側だったお互いの関係性が変わっていったことです。アニメ作家さんが描くアバターを通して、当事者が自分の気持ちを表現していく。すると、最初はあった障がい者と健常者の壁みたいなものがなくなって、このアバターにどういうことを言わせたら世の中の人に伝わるだろうかということをともに考える「仲間」になったのです。対話と同じで、こういったプロセスが生む連帯感もまた共生社会の大切な要素ではないでしょうか。

『ふつうってなんだろう?』の一場面

『ふつうってなんだろう?』の一場面 (C)NHK

――お聞きしていると共生社会が一つの大きなテーマとなっていることが伝わってきます。今後はどのような番組を作っていきたいとお考えになっていますか。

佐藤 今後やりたいことがあるとすれば「場」をつくることです。たとえば健常者と障がい者が共生していくには、まずお互いが出会える「場」がなければいけない。世の中はテクノロジーがどんどん発展して世界中の人とつながることができるようにはなっているけれど、結果を見てみると、似たような考えの人たちだけでかたまっているパーソナルなコミュニティーになってしまっている。それではいつまでたっても共生社会はできません。

じゃあどうすればいいかと考えたとき、NHKという公共メディアだからこそできることがあるはずなのです。それが僕にとっては「出会いの場」をつくることで、これがしばらくは教育番組制作者としての自分のテーマになっていきそうです。

佐藤正和氏

――佐藤さんは去年から〈NHK〉2020応援ソングプロジェクト『パプリカ』も担当されていますね。

佐藤 おかげさまで5人の子どもユニットFoorinが歌う『パプリカ』は子どもはもちろん20代以上の大人の間でも話題になっています。そこで今やろうとしているのが、Foorinと同世代の障がいのある子どもたちが『パプリカ』を一緒に演奏する「パプリカこどもバンド」です。Foorinのメンバー一人一人が耳の聞こえない子やダウン症の子、視覚障がいの子たちと組んで『パプリカ』を合奏するのです。耳の聞こえない子は手話で『パプリカ』を表現する。ダウン症の子はただひたすらパッションで踊る。それをFoorinの子たちが見たときにどう感じるのか。そこから生まれるものを見たいのです。

また、障がい者の方々は、別の障がいを持つ方とはほとんど接点がないといいます。「パプリカこどもバンド」ではさまざまな障がいを持つ子どもたちがごちゃまぜになっています。大人同士ではなかなか打ち解けることができないけれど、子どもの場合は「場」さえ用意してあげればすぐに仲良くなれるはずです。そういう経験を子どものうちに積んでいれば、大人になったときにその子の人生も少し違うものになるのではないでしょうか。「共生社会」への試みの一つとして、子どもたちが夢を持って生きていけるように、まずは「パプリカこどもバンド」が表現する『パプリカ』を世の中に投げかけてみたいですね。

TEXT:中野渡淳一

佐藤正和(さとう・まさかず)

日本放送協会 制作局〈第1制作ユニット〉教育・次世代チーフ・プロデューサー。 1975年、東京都生まれ。中央大学法学部卒業後、1996年NHK入局。「NHKのど自慢」「バラエティー生活笑百科」「爆笑!オンエアバトル」等の制作に従事したのち、教育番組の企画・制作スタッフとして、「ピタゴラスイッチ」「シャキーン!」「デザインあ」「ノージーのひらめき工房」「Q~こどものための哲学」「u&i」「ふつうってなんだろう?」〈NHK〉2020応援ソングプロジェクト「パプリカ」等を担当する。グッドデザイン大賞、ADC賞、プリジュネス賞、ピーボディー賞、アメリカフィルムフェスティバル金賞など国内外で受賞多数。