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2050年、世界の人口は約100億人に迫るといわれている。現在の人口が約75億人であることを考えると、30年あまりで25億人も増加すると予測されているのだ。そんな未来を見据えたときに浮かび上がってくるのが「食糧難問題」である。

農地拡大に伴う森林伐採や水資源の大量使用により、地球の環境は刻一刻と悪化している。さらには温暖化による気候変動も関係し、急激な人口増加をカバーするだけの食糧生産は困難なものとして見られているのが現実だ。

こうした背景から、国際連合食糧農業機関(以下、FAO)は2013年、「昆虫が今後の食糧になり得る」というレポートを発表した。しかし、昆虫を人の食料として考える「昆虫食」は、いまだ好奇の目で見られてしまい、多くの人がそこに眠る無限の可能性に気がついていない。

そんななか、独自に「昆虫食」を研究している人物がいる。昆虫料理の第一人者である内山昭一氏だ。

1999年より内山氏が代表を務める「昆虫料理研究会」は、定例試食会を開くなどして昆虫食の啓蒙活動に邁進している。はたして、昆虫食は世界を救うカギとなり得るのか、内山氏に話を聞いた。

「昆虫食」は地球が抱える問題を解決する糸口になる

――内山さんは昆虫料理研究家として知られていますが、初めて昆虫食に触れたのはいつ頃でしょうか?

内山 私は長野県長野市に生まれました。長野には今でも昆虫を食べる文化が残っていて、幼少期の頃にカイコのサナギを食べたのが、昆虫食との出合いでした。そもそも当時は、川魚やタニシをとって、それが夕食に並ぶことが普通だったんです。なので、それがたとえ昆虫であっても、自然のものをとって食べるということに抵抗はありませんでした。ただ、大人になるにつれて自然と昆虫食から離れていきました。

あらためて昆虫食に目覚めるきっかけとなったのが、1998年に多摩動物公園内にある昆虫館で開催されていた「昆虫食展」です。アフリカなどではおいしそうに芋虫を食べていて、昆虫の発生時期になると村中で採集され、市場に持っていくこともあるという話を聞きました。そのときに、昆虫食の魅力を実感したように思います。

その後、昆虫採集が趣味の友人と一緒に、トノサマバッタを捕まえて食べてみました。油で揚げただけでしたが、味も食感もエビに似ているんです。とくにモモ肉とムネ肉が非常に発達していて、その部位が感動するくらいにおいしかった。これだけ身近な昆虫がおいしいのだから、世の中にはもっとおいしいものがあるかもしれないと思い、本格的に昆虫食を研究するようになったんです。

バッタのチーズフォンデュ

「バッタのチーズフォンデュ」
バッタは素揚げしただけでもエビの風味がして美味しいのですが、とろとろに溶けたチーズをまとわすことで、バッタとチーズの旨味がミックスしてさらに深みのある美味しさを演出します。口触りもまろやかで、とても食べやすくなります。(内山氏)

――今のお話にあったように、日本の各地域で昆虫を食べる習慣はあったものの、食糧としての意識はそこまで深く根付かなかったように思います。それが、近年になって注目を集め始めた理由をどうお考えですか?

内山 今、地球の人口は爆発的に増加していますが、人間が居住可能な土地には限界があり、やがて食糧難に陥るという懸念があります。畜産業を行うにも、これ以上、森林を伐採して牧場をつくるわけにはいきません。さらに、牛や豚、鶏などの場合、大量に必要とされる家畜の餌をどのように確保するのかも課題となります。そのようなさまざまな問題を全て解決できるのが、昆虫ではないかと考えています。

実際、食料問題解決の手段として、FAOが2013年に昆虫食のレポートを正式に発表しました。その後、これまでゲテモノ扱いだった昆虫食を真面目に取り上げようとする動きが出てきたように感じています。

内山さん

そもそも、昆虫は食糧として最適な食材です。例えば、「飼料効率の良さ」があげられます。コオロギの肉を1kg増やすために必要な餌は約1.7kgですが、鶏の場合は2.5kg、豚は5kg、牛は10kgと、他の家畜と比べ昆虫は圧倒的にコストパフォーマンスが良いんです。また、牛や豚の可食部は40%とされていますが、コオロギは100%と、その全てを食べることができます。また、昆虫は養殖時にメタンガスや二酸化炭素などの温室効果ガスをほとんど出さず、養殖に必要な水や土地も少なくて済みます。なかには、家畜の糞を餌として育てられる種類がいるなど、非常にメリットが多いんです。

――2013年以降、実際に世界各国では昆虫を食糧とみなす動きが盛んになっているのでしょうか?

内山 各国で昆虫食品を扱うベンチャー企業が次々と誕生しています。スイスの大手スーパーマーケットは、ミールワーム(甲虫の幼虫)を使ったハンバーガーとミートボールの販売を開始しました。フィンランドでは、大手食品会社がコオロギ粉を練り込んだパンの販売をスタートしていますし、チェコでもコオロギを使ったプロテインバーを生産しています。

また、2017年に韓国で開催された「国際昆虫産業シンポジウム」には、カナダ、メキシコ、アメリカ、ポーランド、イスラエル、タイ、韓国の7カ国のスタートアップが参加しました。

そして、2018年1月には欧州で「EU新食品規定」が施行されました。これは、昆虫を食糧として認めることを明記した法律で、衛生面での審査が通れば、昆虫を食糧として販売できるようになったんです。すでに3社ほどが申請を出しているようですし、今後はもっと増えていくでしょう。

そもそも、ヨーロッパの多くは寒さの影響で昆虫自体があまり生息せず、昆虫食の伝統もありません。そのため、昆虫に対する偏見もなく、純粋に新時代の食糧として受け入れているかもしれません。また、論理的な考えを持っている国民性もあり、環境問題や食糧難を解決できる存在として見ている傾向もあります。

――日本においては、どのような動きが見られますか?

内山 日本にはたくさん昆虫がいますから、さまざまな先入観を持っている人が多いと思います。また、欧州のように昆虫に限らず、食に対する法整備はありません。保健所の許可さえ降りれば、昆虫だろうがカエルだろうが、企業や飲食店は何を販売・提供しても問題ありません。ただ、FAOの発表があってから、イナゴなどは国内での消費が伸びているようです。最近では、東南アジアからイナゴを輸入しているという話も聞きます。

とはいえ、爆発的に消費が伸びているわけではありません。その原因として考えられるのが、昆虫食が「高級品である」ということです。ハチノコや水生昆虫の幼虫はとれる数量が少ないため、非常に高価です。市場に出すのであれば価格帯から高級食材となり、常時食べられるものではなくなります。

――欧州のように昆虫を食料として生産・販売する企業が現れれば価格帯も下がっていくと思いますが、日本ではどうでしょうか?

内山 海外では昆虫食を扱うスタートアップ企業が増えていますが、国内では昆虫食品を輸入販売するネットショップが2社に留まっています。しかし、少しずつ進歩しているのも事実で、食用コオロギの養殖や養殖魚の飼料としてイエバエの利用が進んでいます。

――ビジネスの観点から見た場合、昆虫の種類によって養殖に向き、不向きなどはあるのでしょうか?

内山 もちろんあります。おいしい昆虫が、必ずしも飼育に適しているわけではありません。コオロギやミールワームは元々ペットの餌として養殖するためのノウハウがありますから、比較的容易だと思います。加えて、ゴキブリも育てやすい昆虫のひとつです。そのため、日本国内で昆虫食が浸透していくのであれば、そうした養殖に向いている昆虫から普及が進むのではないかと考えられます。

「命をいただく」子どもたちへの食育にも

――先程、ヨーロッパでは昆虫食という伝統がなかったというお話がありましたが、アジアは昆虫食について先進国といえますか?

内山 日本は先にお話しした通りですが、アジア諸国、アフリカ、南アメリカなどでは昆虫食が昔から存在していましたし、今でも普通に食べられています。現在、世界を見渡せば約19億人が2000種類もの昆虫を食べているといわれています。日常的に食べられている昆虫を多い順に並べると、カブトムシなどの甲虫、イモムシ、アリ、ハチ、バッタ、イナゴ、コオロギ、セミ、ヨコバイ、ウンカ、カイガラムシ、カメムシ、シロアリ、トンボなど、実に多種多様です。

ただし、それらの国々が今後、牛や豚、鶏などの肉食が主流になることは十分に考えられます。日本もその道を通りましたが、ますます地球環境が悪化してしまいます。だからこそ、昆虫食は決して野蛮なものではなく、栄養価もあり、環境にもやさしいものなんだということを広めていく必要があると思っています。

内山さん

――日本で昆虫食が根付かなかったのは、欧米化の影響とともに、「不衛生」や「見た目が怖い」という昆虫に対するネガティブなイメージも先行してしまっているように思います。

内山 そもそも、大正時代には55種類程度の昆虫が普通に食べられていたんです。薬用としては123種類が利用されていました。しかし、衛生概念というものが発達してきて、伝染病の媒介となるハエや蚊などが徹底的に駆逐されるようになってきた。そして、ハエや蚊の不衛生な生き物というイメージが、そのまま昆虫全体のイメージにつながってしまった。それで嫌悪感が生まれ、昆虫食が一気に廃れてしまったと考えています。

また、スーパーマーケットの参入により、スーパーに並ばないものは「一般的なものではない」という認識が広まってしまったことも、昆虫食衰退の一因でしょう。昆虫はとれる季節も限られていますし、価格変動もある。だから、商品としてスーパーでは売りにくいんです。

このように、昆虫食から離れてしまった現代人の間で、それを一般化させるのは難しいことだと思っています。そのためにすべきことは、やはりできるだけ多くの人に食べてもらうこと以外にありません。実際、私も月2回、昆虫食を楽しむイベントを主催しています。嬉しいことに、イベントの参加者は若い人が大半です。これから父親・母親になる世代の人々が昆虫を食べてくれるようになれば、自然とその子どもたちも食べてくれるのではないかと思っています。

イベントで振る舞われた「蟲あんみつ」の調理風景

イベントを開催して分かったことですが、男性よりも女性の方が食べることに関して貪欲で抵抗がないんです。たとえば、ゴキブリ料理を出すと男性は抵抗感を示しますが、女性は面白がって食べてくれる。好奇心が強いんでしょうね。また、将来的には学校給食のメニューとして昆虫が選択肢に入るような状況をつくっていきたいです。イナゴをパンに混ぜたり、パスタに乗せてみたり。子どもに昆虫のおいしさを知ってもらいつつ、実は昆虫の栄養価が高いことも学習してもらえたらと考えています。

炒めたセミからは香ばしい匂いが立ち込める

タガメの下準備

――昆虫は栄養価が高いんですか?

内山 イナゴで説明すると、非常に高タンパク低脂肪な食材なんです。タンパク質が70%で、脂肪が10%以下。そのため、非常に健康的にダイエットが可能な食材でもあるんです。イナゴダイエットというものを提唱したいくらい体づくりにはもってこいです。

――その他、昆虫ならではのメリットはありますか?

内山 昆虫は緊急時の食糧としても重宝できます。たとえば、災害などで食糧が不足した時、タンパク質が最も不足しがちな栄養素だといいます。そんな状況でも昆虫はあらゆる場所に生息しているため、捕まえて食べることで容易にタンパク質を摂取できます。また、乾かしておけば常温で保存することもできるので、電気の供給がストップしてしまった状況下でも腐らず、安心して保管できます。

さらに、「食育」という観点でも昆虫は役立ちます。飼育するのに大掛かりな設備は不要ですし、維持費もかかりません。世話も簡単なので子どもでもできる。そのため、子どもに自ら昆虫を育てさせて、最終的にそれを食べることで「命をいただく」ということを教えることができます。食事の際に、どうして「いただきます」というのか、身をもって学ぶことができる教材になるんです。

――では、そんな昆虫食が好奇の目で見られることなく、今後どのようにすれば普及が進むと思われますか?

内山 欧米などで主流となっているカタチをなくす方法があります。昆虫の形状に嫌悪感を抱く人は少なくないですから。あとは、できるだけ目に付きやすくすることです。長野ではスーパーの棚にイナゴの佃煮などの昆虫食品が並んでいます。魚と同じように養殖することで供給量を増やし、価格を下げることも重要です。

また、昆虫食には単なる食料以外の側面があります。とりわけ四季があり昆虫と親しんできた日本では、山菜やキノコと同様に旬の食材だと思うんです。だから、季節を感じる、旬を楽しむ食材として、カタチを残して食材そのものの味と食感を楽しむ和食的な食べ方も提案しています。サンマをミンチにしてもつまらないですからね(笑)。

昆虫食はさまざまな観点からアプローチが可能ですが、私個人としては今後も現在のような普及活動を地道に続けていきたいと考えています。

TEXT:五十嵐 大

内山昭一(うちやま・しょういち)

1950年長野県生まれ。昆虫料理研究家、昆虫料理研究会代表、NPO法人食用昆虫科学研究会理事。幼少期より昆虫食に親しみ、1999年から本格的に研究活動に入る。どうすれば昆虫をよりおいしく食べられるか、味や食感、栄養をはじめ、あらゆる角度から食材としての可能性を追究している。著書に、『楽しい昆虫料理』(ビジネス社)、『昆虫食入門』(平凡社)、『昆虫を食べてわかったこと』(サイゾー)、共著に『人生が変わる! 特選昆虫料理50』(山と渓谷社)、監修に『食べられる虫ハンドブック』(自由国民社)がある。東京都日野市在住。
昆虫食彩館(昆虫料理研究会ホームページ):http://insectcuisine.jp/

1977年にエピソード4が公開されて以来、多くの熱狂的なファンを生み出してきた映画「スター・ウォーズ」。ダース・ベイダーなどの多くの魅力的なキャラクターや神話をモチーフにしたとされるストーリーもさることながら、作中に登場する近未来テクノロジーの数々も作品の人気を支える重要な要素です。

2018年6月にはスピンオフ映画「ハン・ソロ」の公開を控えていますが、本作の主人公であるハン・ソロが操る宇宙船ミレニアム・ファルコンの性能について、IBMが現代のテクノロジーで再現可能かどうかを検証しました。

IBM サイエンス&スター・ウォーズ

「IBM サイエンス&スター・ウォーズ」と題したWebページでは、スター・ウォーズに登場するテクノロジーとそれに迫る現在のテクノロジーとの比較検証を、動画を中心に行っています。エピソード1は劇中でおなじみの武器、ライトセーバーをレーザーによって再現し、エピソード2ではIBM WatsonのAPIを利用してドロイドを試作しました。いずれのエピソードでもファン必見のテクノロジーが紹介されていますが、中でもとりわけ興味深いのがエピソード8のスペース・トラベルです。

スター・ウォーズのようなSF映画の中では、宇宙船を駆って銀河系を旅する様子がごく当たり前のように描かれています。ハン・ソロが操るミレニアム・ファルコン号も、外見こそくたびれていながら光速の1.5倍の速度で航行することができる「宇宙最速のガラクタ」と呼ばれています。

ところが、21世紀初頭の現在、人類は銀河間どころか恒星間の航行すら満足に実現できていません。宇宙空間は私たちの想像を絶するほどに広大で、残念ながら現有するテクノロジーで銀河間航行を実現するのはほぼ不可能だろうと考えられています。

量子コンピューターの性能

とはいえ、そうした壁を突破すべくさまざまな取り組みが行われているのもまた事実です。「IBM サイエンス&スター・ウォーズ」 エピソード8で紹介されている量子コンピューターの活用もその一つ。 量子コンピューターとは、量子力学の原理をフルに活用して動作するコンピューターです。私たちが日ごろ目にしているコンピューターとは異なる原理で動作し、特に複数の要素の中から最適な組み合わせを選び出すような処理においてその力を発揮します。

「巡回セールスマン問題(※1)」などの例からも分かるように、ある要素群の中から最適な組み合わせを求めるための計算は構成要素の数が増えるほど複雑化し、そのために必要となる計算量も爆発的に増加します。量子コンピューターを使うと、こうした問題に対する最適解を従来のコンピューターよりも高速にはじき出すことが可能です。

(※1)「セールスマンが複数都市を1度ずつすべて訪問して出発点に戻る際、移動距離が最小になる経路」を求める問題。スーパーコンピューターなどを用いても最適なルートを求めることは困難とされている。

量子コンピューターがハイパードライブ航行を可能にする?

ミレニアム・ファルコン号には、宇宙船を異次元空間に突入させ、惑星間の距離でも瞬時に移動することのできる「ハイパードライブ」という機能が備わっています。ハイパードライブモードに突入する際には座標計算を行いますが、広大な宇宙空間に散らばる無数の座標の中から最適な航行ルートをはじき出すには、量子コンピューターに似たテクノロジーが活用されていると推測できます。

言い換えれば、量子コンピューターを用いて宇宙規模の座標計算を行うことができれば、いずれはハイパードライブのような超高速航行を支えるシミュレーション・システムが実現するかもしれません。 もちろん、仮にそうしたシステム開発に成功しても、すぐに銀河間航行が可能になるわけではありません。

それでも、人々を魅了して止まないスター・ウォーズのテクノロジーが、現在のテクノロジーからまったくかけ離れたものではないと言える可能性は残されています。 ともあれ、私たちが銀河系を自由に飛び回れる日が来るか来ないかは、「May the Force be with you(フォースとともにあらんことを)」の精神で気長に待つことになりそうです。

photo: Getty Images

「クローン文化財」という言葉をご存じだろうか。「クローン」と「文化財」。一見相反する領域にある2つの単語を組み合わせた不思議な言葉だが、これは東京藝術大学の宮廻正明名誉教授が名付けた文化財の継承法で、「東京藝術大学の知見」と「ITを駆使した最新のテクノロジー」、そして「伝統と職人の技」を融合させた特許技術なのだ。宮廻教授は、門外不出の国宝「法隆寺釈迦三尊像」をクローン技術によってみごと復元し、2017年、クローン文化財だけを展示した展覧会で初めて寺からクローンというかたちで「外出」させることに成功した。
宮廻教授は、「クローン文化財」はコピーや模倣、複製ではなく、“オリジナルを超越する芸術”。これまで不可能だった“保存”と“公開”という文化財の持つ矛盾やジレンマを解決できる方法でもある」と説く。
クローン文化財を推進する背景には、一人ひとりがそれぞれの良さを生かし合う社会を目指す、宮廻教授の熱い思いも流れている。文化財の伝承方法だけに留まらないクローン文化財の可能性について、宮廻教授にお伺いした。

咲き誇るソメイヨシノは、オリジナルを超越した

――クローン文化財に取り組もうと思われたきっかけ、また、従来の模写などとの違いを教えてください。

宮廻 私がやってきた文化財保存修復の複製画というのは、英語で言うとコピーでしたが、それではあまりに安っぽいイメージで、誰でもできそうです。そこで、海外でも通用し、言葉だけでイメージが伝わるものはないかと考えていた時でした。上野駅から藝大に来る道すがら、春になると、桜の花が一斉に咲き、国内外から大勢の人たちがその桜、ソメイヨシノ(染井吉野)を愛でに来ます。ご存じのようにソメイヨシノは、オオシマザクラ(大島桜)とエドヒガン(江戸彼岸)の交配種をオリジンとするクローンです。世界中で、これだけ愛され、価値が認められているクローンはありません。
そこで、「クローン文化財」という概念を考えました。もちろん当初は「クローン」という言葉に対する負のイメージもあり、反対もありました。しかし、「クローン」というと分かりやすいし、始めは「マイナスイメージ」があっても、そこから広がれば、いずれソメイヨシノのようになるのではないかと思ったのです。

咲き誇るソメイヨシノは、オリジナルを超越した

模倣やコピー作品と、クローン作品の一番の価値の違いは何か。それは、オリジナルの超越です。例えばソメイヨシノは元の桜を超越して世界中の人々に愛され、もはや桜の代名詞となりました。実はこれは、日本の文化全体に通じることなのです。日本の文化も最初は「模倣」から始まっているからです。
古来、文化はシルクロードによって隣村から隣村へと伝わりました。そして村ごとに伝わった文化を受容し、混ざり合い、また隣の村に伝わる。日本には、西域の文化にアジアの文化が混ざり合った状態でたどり着きました。日本が優れているのは、こうして伝わる過程で変容した文化を、ただ単に受け入れただけではなく、伝わった状態に日本独自の工夫を加え、より良いものへと「超越」させた点です。日本が誇る「車」「カメラ」などの製品も同じです。オリジナルを超越したものを創ることができる、それこそがジャポニズムなのです。クローン文化財もそれと同じく、単なる模倣、複製ではなく、オリジナルを超越するところに価値があると思っています。

オリジナルを超える「平成の釈迦三尊像」

――先生が取り組まれた国宝・法隆寺の釈迦三尊像は東京藝大の知見と、最先端IT、そして、伝統的な鋳造技術を持つ熟練職人たちの技が一体となって取り組んだ結晶であり、まさにオリジナルを超越した出来栄えだといわれています。

宮廻 2017年秋、シルクロード特別企画展「素心伝心」という展覧会を開催しました。
バーミヤン東大仏天井壁画、敦煌莫高窟、高句麗古墳群江西大墓など、戦争や自然災害、修復による破損、経年変化によって失われた古代シルクロードの7つの国や地域の歴史的遺産を、最先端のデジタル技術と人の手による伝統的なアナログ技術を駆使して、再び現世によみがえらせました。クローン文化財ばかりを展示する試みでしたが、間近で見ることができ、展示物に触れることもできる、と新しい展覧会のあり方を示すこととなり大好評でした。

オリジナルを超える「平成の釈迦三尊像」

この展覧会では、昭和24年に火災によって焼損した法隆寺金堂の壁画を復元し、さらに国宝であり門外不出で、法隆寺以外では見ることができない釈迦三尊像を3D技術を用いて再現しました。ただ現存しているものをそのまま再現するのではなく、欠損部分を創られた頃の状態に戻したのです。
というのも、現在の釈迦三尊像は、螺髪(らほつ)の一部や白毫(びゃくごう)が欠損し、後背の火焔は残っていません。欠損された状態で国宝に指定されているので、どんなに技術があっても、手を加えて修復することができません。一方でクローンならば、創られた状態に戻すことができます。つまり、クローンの方が「実際に創られた時の状態により近い」ことになるのです。また、釈迦が左右に従えた脇侍も左右が逆に配置されていましたが、今回のクローンでは正しい形に戻しています。つまり、ある意味ではクローンが現存しているものを超越した、といえるのです。

では、技術だけでクローン文化財ができるかというとそうではありません。従来、壁画の修復などは、いわゆるデジタル技術を駆使して行っていましたが、それだけではやはりオリジナルの持つ感性や芸術性などといった人間だけが出せるアナログの味が足りず不完全でした。藝大には美術史の先生もいれば、絵具を分析する専門家から絵を描く画家まで一流の人材が揃っています。その人たちの「アナログの力」の協力によって、限りなく正確なものができます。

具体的に釈迦三尊像の再現にあたっては、実際の像の3D計測を行い、御像の背後など撮影できない部分については、藝大が持つ仏像に関するデータや知見で類推してデータを補完しました。そのデータを3Dで復元してプリンターで出力、鋳造の原型を造形したのです。デジタル技術だけでは完成できなかった点に、藝大の知見を加えることで、不可能を可能にしました。これがデジタルとアナログの融合が不可欠な点です。
織物を例にとると、ピンと張られた縦糸が伝統です。そして、現代の最先端技術が横糸。どんなに横糸を織り込もうとしても、まずは縦糸がきちんと張られていなければ美しい文様は出せません。互いが合わさることで、初めて美しい文様が現れるのです。

オリジナルを超える「平成の釈迦三尊像」

左手奥にあるのは原型

――今回、造形の部分は、富山県高岡市の鋳造や彫金職人と南砺市の彫刻職人の方々が担当されました。

宮廻 造形については、技術の伝承という意味で、日本有数の鋳物の街、 富山県高岡市の伝統工芸高岡銅器振興協同組合の方々にお願いしました。地方の伝統的な技術を持つ職人さんが、その地方独自の文化・造型技術を発揮することで、本当の意味での地方創生につながると思ったからです。

今回の釈迦三尊像の鋳造、彫金に関しては、高岡の組合に加盟する会社が、それぞれ「中尊」「両脇侍」「大光背」などを分担してくれました。また、台座は富山県南砺市の井波彫刻協同組合が制作しました。それぞれの職人さんたちは、自らが受け継ぎ磨いてきた伝統の技を、一致団結して、情報を交換しながら、完成させてくれたのです。

さらに、「仏様のコピーを造るとは何事だ」という声に対しては、法隆寺の大野玄妙管長が「それならば」と、今後展覧会などが一段落し落ち着いたら御霊入れをしてくださることになりました。このことでまさに、「平成の釈迦三尊像」が誕生することになったのです。

それぞれが得意とする分野を生かし合い、お互いの尊厳を認め合う

それぞれが得意とする分野を生かし合い、お互いの尊厳を認め合う

――ところで、藝大では「お互いが得意とする分野を生かし合い協力する」という点を重視されているとお聞きしました。具体的にはどのような活動をされているのですか。

宮廻 例えば障がい者とアートの関わりです。障がい者と一言で言っても、健常者には到底持てない能力を備えた人がいます。そんなすごい能力を持っている人たちを果たして「障がい者」と言えるのか。そのあたりを見直す運動も進めています。

藝大が拠点となっているCOI(革新的イノベーション創出プログラム)があります。ここでは「『感動』」を創造する芸術と科学技術による共感覚イノベーション拠点」をテーマにしており、その一環として芸術に触れる感動を障がい者から学ぶ活動をしています。通常、健常者と障がい者が共同で作業する場合、健常者側がプログラムを作りますが、ここでは逆です。障がいを持つ人が教える側になり、その人たちが持っている特別な能力を、健常者に教えます。
実は今回のこのクローン文化財のプロジェクトの背景には、そういう人たちから学んだ「お互いの尊厳を認め合い、それぞれの秀でた能力を合わせてより良いものを創る」という思いが根底にあります。

また、別な例として、オランダのNICAS(オランダ芸術科学保存協会)と、2016年に協力協定を結びました。NICASは、芸術作品のデータ解析や科学分析では世界トップクラスですが、モノを作る技術がありません。反対に、日本はデータを収集する環境はありませんが、伝統継承によるモノを作る技術があります。お互いが得意とする分野で協力することで、世界中の文化財の「保存と公開」が可能になると思います。

それぞれが得意とする分野を生かし合い、お互いの尊厳を認め合う

オランダの画家ピーテル・ブリューゲルの最高傑作とされる絵画「バベルの塔」のクローン作品。
オリジナルの9倍(面積比)の大きさに拡大し、オリジナルでは見えにくい1400人の人物などの様子も分かるようになった。

文化財の伝承に関わる“保存”と“公開”の課題を解決する

――文化財を保存する最も効果的な方法は「非公開」といわれます。

宮廻 これまで、文化財の大きな課題は“保存”と“公開”というジレンマへの対応でした。保存に最も有効な方法は公開しないことです。
これからはクローン文化財により、このジレンマを解決することができます。また、大きな特徴の1つでもある「触れられる」点により、それまで美術館などから遠のいていた目の見えない人も訪れることが可能になります。つまり、今後は展示する側、美術館側も、情報の公開方法を考えるべきだと思います。文化財が壊れたり、傷んだりすることに注意するだけではなく、もっと新しい方法で、文化財を楽しんでもらう方法があるのではないかということを考えてほしい。
クローン文化財が持つ利点は、単に再生産ができるという点には留まりません。そこから派生した、人間の尊厳を学ぶことにもつながるのだと思います。

文化財の伝承に関わる“保存”と“公開”の課題を解決する

こちらはエドゥアール・マネの絵画「笛を吹く少年」のクローン。
絵画(左)だけでなく、立体像(右)にしたクローンもある

――お互いの良い点を認め合うことが、文化を伝承することにつながるのでしょうか。

宮廻 最初にシルクロードによって西の文化が東に伝わった話をしましたが、これは文化の融合ではありません。融合というのは、赤インクと青インクを混ぜると「紫」になり、赤でも青でもない、新しい色による、いわば「攻略」です。しかし、混在は違います。赤い絵具と青い絵具は粒子を混ぜると一見紫に見えますが、それを拡大すると、赤と青の粒子の色が確実に存在しています。つまり、互いの存在を認め合う。尊厳を認め合うことなのです。

今、世界各地で、大国が小国を吸収しようとしたり、テロリストが文化財を破壊したりしていますが、本来はお互いの尊厳を認め合うべきなのです。そして、強いものが弱いものを下支えする、それこそが人間の持っている知恵だと思います。

例えば、アフガニスタンのバーミヤン東大仏天井壁画は、2001年にタリバン・イスラーム原理主義勢力により破壊されました。私たちは、それを何とか再現したいと1970年代に撮影されたブローニー版ポジフィルムなどから徹底的に分析しました。そのことで、失われる前の絵の全容が明らかになりました。その絵に描かれていたものは、太陽神の周りにキリスト教系の翼の生えた女神、その上には風神雷神、そして脇には仏様の姿が描かれていました。つまり、あの絵が描かれた6世紀には、それぞれが互いの宗教を認め合っていたということです。復元された絵を見て「ああ、きれいだね」ではなく、描かれた時代の社会や人々が希求していたものを学ぶことができるのです。
破壊された、もしくは朽ちていく文化財は現代のIT技術と昔ながらの技、人間の英知によって復元・再現することができます。私はクローン文化財によって、こうした“心”を伝えられると信じています。そして文化の力で平和を学ぶことができると思っています。

また、今後問題となる流出文化財の問題にもクローン文化財は効果的です。文化財を返す・返さないという話になった場合に、2つあれば、分け合う、共有することができるからです。とは言え、みな、オリジナルを持ちたい。ところが、オリジナルを超えたクローンであれば、そちらがほしいということになります。つまり、オリジナルという価値にこだわるのではなく、文化の本質を次の世代に継承していくことが重要なのです。

文化財の伝承に関わる“保存”と“公開”の課題を解決する

――先生の研究は美術という領域に留まらないものなのですね。今後の具体的な目標を教えてください。

実はやりたいことは無限大にあるので、私の周囲のスタッフは戦々恐々としています。
具体的には、平成の釈迦三尊像を創ったので、次は造仏当初の金色に光り輝く釈迦三尊像を復元したい。そして、その後は未来の仏像としてクリスタル素材で制作し、ライティングで中から光らせれば、まさしく「内側から金色に光り輝く釈迦三尊像」ができるのではないかと思います。

また、クローン文化財の技術については特許を取得していますが、それは、きちんと伝承していくためのもので、独占しようとしているわけではありません。今後は世界各地の人たちが、その国の文化財のためにこの技術を使ってほしいと思っています。この技術を活用して、各地で人材育成をし、文化に根差した観光産業が成り立てばいいと考えています。つまり、文化財を持つ各国、各地の人たちが自分たちでクローン文化財を作れるように、お手伝いをしていきたいと思っています。

実はこの1月に藝大発のベンチャービジネスを立ち上げました。株式会社IKI(粋、Institute for Knowledge and Inspiration)という、知とひらめきの研究所です。株式会社ですので、5年くらいで軌道に乗せ、人材を育て、発展させていきたいと思っています。そのためにも、今後、さまざまな発想が必要になるでしょう。

TEXT:深井久美

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宮廻正明(みやさこ・まさあき)

日本画家、東京藝術大学名誉教授
1951年島根県松江市生まれ。東京藝術大学美術学部デザイン科卒業。 同大学院文化財保存修復技術(日本画)修了、平山郁夫に師事。1995年に東京藝術大学助教授、2000年教授。同大学学長特命、社会連携センター長、同学COI拠点研究リーダーなどを経て、2018年4月から同大名誉教授。 日本美術院同人・常務執行理事、文化財保護・芸術研究助成財団理事長。足立美術館評議員長、山種美術館理事、シルクロード美術館副理事長。
「クローン文化財」の功績により21世紀発明奨励賞、平成30年度科学技術分野の文部科学大臣表彰科学技術賞(科学技術振興部門)受賞。

商取引を支えるもっとも原則的かつ重要な基盤は「信頼」です。「あの商品は偽物かもしれない」という疑念があれば購買には結びつかず、取引相手が持つ紙幣がニセ札かもしれないという疑惑がある状態で物を売ることはできません。売り手と買い手の間に相互信頼が確立されて初めて、商品・モノの売買が成り立ちます。

しかし、そうした信頼の隙を突くようにして利益を得ようとする人物も存在します。

偽造品との闘い

社会が成熟して商取引の規模が拡大していく中で、人類は信頼を担保するためのさまざまな仕組みを構築してきました。たとえば、私たちが金銭を通じて当たり前に物を売買できるのは、通貨制度という仕組みがあってこそ成り立っています。食品や医薬品、家電製品などの商品を安心して購入できるのも、製品の安全性を監視する仕組みが存在するからです。

偽造品の流通を防止するための取り組みも、数多く試されてきました。しかし、複数の国の複数のサプライヤーから成る複雑なサプライチェーンには、不正を企てる者がその隙を狙っています。

IBM Researchの調べによれば、こうした不正行為が近年の世界経済に与える損害は、なんと年間6000億ドルを超えるといいます。その被害は紙幣や家電、さらには薬品にまで及び、一部の国においては人命に関わる薬品の実に7割近くが偽造品であるという調査結果もあるほどです。

「信頼」の在り方を塗り替えるブロックチェーン

このような問題を解決する鍵を握ると考えられているのが、「ブロックチェーン(分散台帳)」という技術。取引の記録を分散管理することによりデータの改ざんを防ぐ仕組みです。

従来の信頼性確保の仕組みのほとんどは、中央集約型で実現されていました。ブロックチェーンは、取引の記録(台帳)を複数のコンピューター上に保存して参加者間でリアルタイムに共有すると共に、高度な暗号化技術を用いて情報の複製や改ざんを防ぎます。ブロックチェーンを応用すれば、中央に監視機能を置くことなく、取引の信頼性を担保することも可能になります。実際、民間発行の仮想通貨が多くの人に支持されているのも、ブロックチェーンのおかげです。

ブロックチェーンを物理領域へ拡張する「塩粒大のコンピューター」

ブロックチェーン上では記録された内容をほぼリアルタイムに把握することができるため、複雑なサプライチェーン内における信頼性の確保にも多大な効果が期待されています。ただし、ブロックチェーンはあくまでもデジタルの世界で動作する仕組みであり、それ自体に物理的な「モノ」の信頼性を保証する力はありません。

そこでIBMでは、ブロックチェーンを物理領域に拡張するための「暗号化アンカー(crypto-anchors)」の研究を進めています。暗号化アンカーとは、簡単にいえば製品の製造元などを証明するための「タグ」のようなもの。先日米国で開催された「IBM THINK 2018」では、世界最小のコンピューターを活用した画期的な暗号化アンカーが紹介されました。

この画期的な暗号化アンカーは塩粒よりも小さなコンピューターを用いてつくられたもので、ブロックチェーンと連携してデータの監視や分析、更新などを行います。これを製品に取り付ければ、流通過程におけるモノの流れをリアルタイムかつ正確に把握し、偽造品の混入を始めとした不正防止に役立てることが可能となります。

あらゆる製品にパッとスマホをかざすだけで製品の製造場所から消費者の手元に届くまでの経路を瞬時に確認できる――。ブロックチェーンと暗号化アンカーの技術により、流通における信頼の確保は今後、劇的に変化していくことでしょう。

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数学を駆使して材料科学のフロンティアに挑む――「数学は文脈を読み解く学問なのです」

材料科学と数学を融合させ、物質・材料科学の新領域を切り拓く――そんな世界初の試みに挑戦するのが、東北大学材料科学高等研究所(AIMR*)だ。所長を務めるのは国際的な数学者である小谷元子教授。「数学で何ができるの?」という周囲の見方をよそに、優れた研究成果を次々と発表している。
小谷教授の懸念は、数学の有用性や楽しさが日本では十分に認識されていないこと。数学ができる学生が優遇される世界の大勢から取り残されている。「数学は、科学の専門分野を超える共通の言葉。その面白さや楽しさを、ぜひ子どもたちに伝えたい」と小谷教授は言う。
しかし、現実には受験勉強が優先され、子どもたちは数学が持つ本来の面白さを実感する機会が乏しい。とりわけ数学を避けるため理系に進む女性の数が少ない。小谷教授は「研究時間を自分でコントロールできる数学は、自宅で研究できて育児と両立できるので、女性が職業とするにはベストな選択」と力説する。
いろいろな学問分野の土台になる数学の重要性は増している。AIMRで異分野融合を大胆に進める小谷教授に、数学の面白さや広がる役割について伺った。

*AIMRは、文科省の指定する「世界トップレベル研究拠点プログラム(WPI)」の1つ。

数学は大人と子どもが対等に議論できる学問

――小谷先生が数学者になろうと思われたきっかけは何でしたか。数学のどこに魅力を感じられたのでしょうか。

小谷 子どもの頃から本を読んで自分で調べるのが好きでした。自分で考えたことを先生に質問に行くと、数学の先生がとても親切に対応してくださり、それが嬉しくて数学に進むきっかけになりました。
今振り返ると、数学という学問の本質がそれを可能にしたのだと思います。数学以外の学問は経験に基づいてルールが決まっていたり、実験しないと分からなかったりするので、子どもにはなかなか理解できないことが多いのです。
しかし、数学は論理を積み上げていくものなので、子どもでも「自分はこう考えていて、その理由はこうです」と説明できます。それが間違っていれば先生が指摘してくれる。正しければ認めてくれる。だから大人と対等に議論ができます。きちんと説明すればお互いに納得し合える、という数学の本質が自分に合っていたのだと思います。

数学は科学を理解するための共通の言葉です。ガリレオ・ガリレイの「宇宙の書物は、数学の言葉で書かれている」という有名な言葉があります。宇宙とは単に天体のことではなく、自然界の生態や人間のすべての営みなどの社会活動をも含む宇宙という意味です。
また20世紀の物理学者ユージン・ウィグナーは「数学の不合理なほどの有効性」と述べています。アインシュタインの相対論に数学・幾何学が重要な役割を果たしました。

数学は大人と子どもが対等に議論できる学問

今の教育は発見する喜びを待つより、問題を解けるよう効率よく教える

――それほど面白い学問なのに、日本の子どもや学生たちの数学離れが言われますね。

小谷 格差が広がっているのかなと思います。例えば東北大学が開くサイエンス・カフェには意欲的な子どもたちが参加します。SSH(スーパー・サイエンス・ハイスクール)では、先進的な学問を体験できるし、ほしい情報はインターネットで得られます。数学や理科の本質に迫るような勉強をしている子どもは、私たちの世代よりずっと増えています。
一方で数学が嫌いな子どもが多いのも確かです。世界的な学力調査では、日本の数学レベルは高いのに、「数学は面白いか」「生活に役立つか」と聞くと、「そう思う」という割合が他の国に比べてとても低い。
これはやはり受験が影響しているのです。高校1年ぐらいで理系と文系をクラス分けするので、子どもは数学や理科の本当の面白さを知る前に進路の選択を迫られてしまう。最初から理系文系を分けて授業するほうが受験には効率がいいからです。

先生は子どもが自ら発見する喜びを待つより、問題をうまく解くことを教えます。子どもは面白さを知らないままどんどん先に連れて行かれてしまう。
つまり、数学や理科の本質を学ぶことに積極的にアクセスする子どもがいる一方、受験向けには点数が取れるけれども、本当の面白さを知らない子どもたちが多いのです。そんな子どもたちでも、自然の原理に数学がどのようにかかわっているのか話をすると、「数学ってそういうものなんだ!」と気付いてくれます。

今の教育は発見する喜びを待つより、問題を解けるよう効率よく教える

分野ごとのいわば「方言」の裏にある本質的なものを数学で表現する

――ところで小谷先生が所長を務められるAIMR(東北大学材料科学高等研究所)は、材料科学関係の世界第1級の研究者たちを結集し、数学で横串を刺してアプローチするという世界でも初の試みに挑戦されています。異分野である数学と材料科学を融合させる意図を説明していただけますか。

小谷 材料科学は比較的新しい分野で、研究者は物理、化学、金属工学、デバイスなどいろいろな分野から集まっています。分野ごとのいわば「方言」で教育を受けており、分野が違うと情報や価値観を共有するのも難しい。そこで「方言」で語られることの裏に隠れている本質的なものを共通言語である数学で表現し、お互いをインスパイアしようと考えています。
どこかの系でブレークスルーが起きたら、そのアイデアを抽象化することで別の分野に移植することができ、類似の結果が期待できます。そこに科学の言葉である数学が共通してかかわっていくのです。例えば土砂の中で水がどう流れるかという問題は、細胞の中で物質がどう拡散するかという問題と数学的には同じです。

――組織運営に当たっては、融合実現のためにどんな工夫をしておられますか。

小谷 まず分野を超えた議論をするために「ティータイム」を毎週1回、1時間設けています。ここで、ベテラン研究者も若い人も外国人も、自分の研究内容を誰でも分かるようなレベルで20分ぐらい紹介する「ティータイム・トーク」を企画しています。全員で自由に議論するのです。くだけた雰囲気のなか「それならこんな方法があるよ」といった提案が出てきます。素人的な質問も大歓迎です。

もう1つの工夫は、フュージョン・リサーチ・ファンド(融合研究資金)です。分野の違う若い人同士が一緒に研究計画を応募する制度です。少額ですが、異分野の人同士が共に議論するのを奨励するのが目的です。
海外の研究者は分野を超えて気楽に話しかけたり質問したりすることに慣れているので、説明も上手です。それに比べ、日本人の研究者は遠慮深いせいか、他分野の人と交流しない傾向があります。そこを打破することを狙っています。

分野ごとのいわば「方言」の裏にある本質的なものを数学で表現する

原子・分子の研究が進み、新しい数学が必要になった

――ところで先生のご専門である「離散幾何解析学」とは、どのような学問なのでしょうか。それはAIMRの新物質創成や物性発現の解明にどのように役立っているのでしょうか。

小谷 数学は代数、幾何、解析の3つに分かれますが、幾何学というのは形を研究する学問です。20世紀の数学は主に連続な対象を扱ってきており、特に自然の現象を理解するには、微分方程式で形や動きを記述することが有効でした。

しかし、科学技術が進んで、原子や分子などを観測・制御するようになると、原子など離散的な(バラバラな)形を記述して解析する数学が必要になりました。

一方、材料科学が「使う」ことを目的としている以上、原子・分子の構造が離散的であっても日常生活で使いたい連続的な形や物性をそこから見出すことが重要になります。離散的なものと連続的なものを橋渡しする道具が必要で、それにスケール間をつなぐ数学「離散幾何解析学」を使おうと考えました。ある性質を持つ材料を作る場合、やみくもに試すより、こんな構造であればこんな性質になるだろうという予測をしたい。そのために構造と性質の間にある普遍的関係性を深く調べる離散幾何解析学が役立つのです。
離散的なものを扱う数学は非常に難しかったのですが、20世紀末ごろからいろいろアイデアが出て来ました。私は初期段階からその研究をしてきたので、最新の数学を材料科学に生かしたいと思って2011年にAIMRに参加したのです。

――融合研究によってどのような成果が得られているのでしょうか。

小谷 数学が一番役に立ったと思えるのは「無秩序系」への理解が進んだことです。
普通の金属・合金は原子が周期的に配列した結晶構造をしているので、局所的な観測データがあれば、全体の構造や性質も理解できます。
一方、アモルファス金属、ガラス、ソフトマテリアル(高分子など)などは原子が周期的な構造をしておらず、無秩序系と呼ばれます。局所的なデータをたくさん集めても、全体の構造が分からないので、材料としての機能との相関を効率よくとらえることができませんでした。

そこでトポロジー(位相幾何学)を使って局所的データから、無秩序系に隠れている全体の構造を解明することに挑戦しました。その結果、ランダムな構造に見えるアモルファスも、実はいくつかの基本パターンの集まりであることを解明するなど、予想以上に早く成果が出ています。特に21世紀に開発された「計算トポロジー」が有効でした。

原子・分子の研究が進み、新しい数学が必要になった

新たな研究領域が核形成始めている

――先生は「日本の研究者は新しいアイデアに取り組んで、パイオニア領域を切り拓く力が弱い」と述べておられます。日本の将来にかかわる重要な指摘だと思います。その課題はどのように乗り越えれば良いのでしょうか。

小谷 AIMRの研究者の約半数は外国人です。数学を導入しようとした最初のとき、彼らは新しい数学を使うことに意欲的なのに対し、日本人は「数学を使って本当に材料研究ができるのだろうか」と慎重でした。ところが話を聞いてみると、数学を使う能力もアイデアも、外国人も日本人もほとんど同レベルでした。
つまり、外国人は新しい手段が目の前にあれば、すぐ使ってみたがるのに対し、日本人は能力があっても軽々しく飛びつかない。よほどの確信がないと手をださない。これは謙虚さの表れでもあります。そのため新しいことに挑戦したがらないように見えるのです。

今はどの学問分野もダイナミックに動いており、領域の境界がなくなり融合し、更に新しい核形成を始めています。どの学問も1分野だけで成り立つことはありません。自分の専門を深く究めようとする日本人の姿勢は良いのですが、他分野の人と積極的に交流し、最新の知識を導入してパイオニア領域を切り拓いて行くべきだと思います。

実験系に比べ、数学は研究と生活を両立させやすい

――先生は「数学は女性に向いている」と述べておられます。それはなぜなのでしょうか。

小谷 理由は2つあります。1つは現実的な問題で、研究者に限らず女性が社会で働き続けるときの一番大きな課題は、子育てと仕事の両立です。研究者は若いときには非常に多くの時間を論文を書くことに費やしますが、女性の場合、その時期が子育て期と重なります。
幸い数学は個人作業なので、自分のペースで時間を配分できるし、実験装置や実験相手の都合に合わせる必要もありません。自宅に持ち帰って空き時間に研究することができ、研究と家庭生活を両立させやすいのです。

もう1つは、文脈を読み解く女性の能力の高さです。例えば天道説と地動説は天体が相対的に動いていると考えれば同じですが、天動説で地球が中心にあると考えると、計算が複雑になって修正を重ねなくてはなりません。逆に地動説で太陽が中心にあると考えると、シンプルにすっきり表現できます。
つまり、問題はどちらが正しいかではなく、どちらの文脈によって物事をより自然に理解できるかです。数学は科学の共通の言葉を作り、科学の文脈を読解して適切な設定を見出したりするもので、さまざまな問題を適切な文脈におくことで解決に導いていきます。文脈とは、ストーリーというか、1つひとつの現象を、その周りとの関係性によって読み取るという意味です。国語の読解力の問題を解くのと同じで、文脈の読解力は女性のほうが一般的に優れていると言われています。

実験系に比べ、数学は研究と生活を両立させやすい

女性の数学者が少ないのは、親の考え方が影響している

――しかし、実際には女性の数学者は極めて少ないのが現状です。それはなぜだとお考えでしょうか。

小谷 一例ですが、私が学んだ東大数学科は、クラス45人のうち女性は私を含め2人でした。それ以前の4年間はゼロ。数学という学問がよく理解されていない上に、当時はまだ親御さんの考え方が大きく影響していたのではないかと思います。今も事情は大きく変わっていないようです。

PISA学力テストでは、15歳時点での数学の点数の男女差は日本ではほとんどありません。数学のイベントに来るのは女子生徒のほうがむしろ多い。つまり能力でも興味の点でも男女に差はないのです。
それがなぜその後も保てないかというと、男子の場合、数学ができると親御さんから「おー、いいぞ!」とほめられるのに、いまだに女子だと「数学なんて女の子らしくない」などと言われる。そのため女子は、強い意欲を持つ子ども以外は、もっぱら文系に進むことが多いのだと思います。

現代の社会は理系か文系かといったどちらか一方だけの知識で生きていくことはできません。デジタル化社会ではデータや情報を論理的に考えることが必要だし、一方で社会構造が変化するなか人文社会系の訓練により多重的な思考を持つことも重要です。
大学入学後に理系文系の選択ができるようにすれば、ずいぶん変わると思いますが、現実は15歳ごろからどちらかの系を選んで勉強を集中するために他方を学ぶ機会がありません。社会人としての幅広い教養を身に付けられないのです。世界はどんどん変わっているのに、中高の先生や親御さんの持っている情報が少なすぎます。子どもたちには「自分がやりたいことを素直に追い求めていくのがいいよ」と言っています。

女性の数学者が少ないのは、親の考え方が影響している

女性の理系大学院生をサイエンス・エンジェルに任命

――東北大学は小中高生に科学の魅力を伝える「サイエンス・エンジェル」の活動をしていますが、紹介していただけますか。

小谷 サイエンス・エンジェルは2006年度に創設した制度で、私も創設にかかわりました。女性が理系で活躍するハードルとして、①環境が整っていない、②育児と研究の両立が難しい思われている、③ロールモデルがない、という3つがあります。サイエンス・エンジェルの任務は身近なロールモデルとして小中高校生に対して科学の多様な魅力を伝えることで、理系に進む女性を増やすことです。
東北大学理系の博士学生は、研究者を目指す人、社会で科学を生かしたい人、高校の先生になりたい人、教養を高めたい人などさまざまな動機を持っています。分野も数学、物理、化学、工学、ライフサイエンスなどいろいろ。女性の感性を活かして化粧品の研究している女性もいます。

そこで「多様なロールモデル」を旗印にして、彼女たちをサイエンス・エンジェルに任命しました。その任務は科学の面白さを伝えるメッセンジャーです。学校などから希望があれば彼女たちを派遣し、時には理科実験もして、「理系はいろいろな可能性があって楽しい」と伝えてもらうのです。科学には底知れない魅力があります。もっと多くの人にそれを知ってほしいのです。

 

TEXT:木代泰之

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小谷元子(こたに・もとこ)
東北大学大学院理学研究科数学専攻教授・材料科学高等研究所(AIMR)所長

1960年大阪府生まれ。1983年東京大学理学部数学科卒、1990年理学博士(東京都立大学大学院理学研究科)、1999年より東北大学大学院理学研究科助教授、2004年より同教授、2008年よりディステングイッシュト・プロフェッサー。また、2011年より東北大学原子分子材料科学 高等研究機構(現材料科学高等研究所)副機構長、2012年より同機構長。現在は東北大学副理事(研究担当)・内閣府総合科学技術会議の有識者議員・日本学術会議員を務める。2005年第25回猿橋賞受賞。

電王戦で見たAIによる進化と人間の未来

この記事はIBM THINK Watsonに掲載された記事を転載したものです。
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文・写真:飯島範久

コンピュータの判断は、AIによって確実に人間に近づいている。いや、人間を超える能力を発揮する部分も出てきている。コンピュータが人間と対等な判断を下せるのか、人間のような「知性」を持てるのか、そんな挑戦を長年続けてきたのがチェスや将棋、囲碁といったゲームの分野だろう。コンピュータが人間に勝つことで「AIは人間の知性と対等もしくは超えた」と一般の人でも明快に認識できる効果もあって、これまでさまざまな対戦が繰り広げられてきた。人間の能力の限界に挑むAIの進化によって、AIと人間との関係が垣間見えてきた。

AIと人間の頭脳戦の歴史を振り返る

Ponanzaと将棋を指す佐藤名人

2017年の将棋電王戦で、佐藤天彦名人がコンピュータ将棋ソフト「Ponanza」に破れ、プロ棋士のタイトル保持者でもコンピュータには勝てなくなったと話題になった。「Ponanza」の開発者・山本一成氏は、この対局の2年前から「すでに人間を超えていると感じていた」と語っていて、現にPonanzaはプロ棋士と対局して1度も負けていない。また、これと同時期に囲碁界でもGoogle DeepMindの「AlphaGo」が旋風を巻き起こし、最強棋士といわれていた李世ドル九段に4勝1敗で勝ち越し。「AIの知性が人間に並び、追い越すことが可能」と世間を賑わせた。AlphaGoに関しては、さらに進化させた「AlphaGo Zero」でもっと強くなり、そして、その技術を活用して作られた汎用ソフト「Alpha Zero」によって、チェスや将棋の分野でもこれまでのソフトを凌駕したレベルに達していることを論文で発表している。

人間とコンピュータの勝負といえば、1997年にIBMが開発したコンピュータチェス「Deep Blue」が、当時のチェス世界チャンピオンに勝ち越して世界的に衝撃を与えたことが思い起こされる。1950年ごろにコンピュータチェスの研究・開発がスタートして50年余り。かなりの時間を費やしたが、プログラマーの念願が叶った瞬間だった。

囲碁は1962年ごろに研究がスタート。コンピュータ将棋の研究・開発は1974年にスタートとチェスに比べて20年以上開きがあるが、これは将棋が日本中心のゲームだったからだろう。どちらもチェスに比べて1ゲーム当たりの合法手が圧倒的に多いために当時のコンピュータの性能では何手も先を読むことが難しく、なかなか強くはならなかった。コンピュータチェスの勝利から10年以上経っても、プロ棋士レベルにはほど遠かった。

それが近年、一気に差を縮めてきたのは、コンピュータの性能アップとともに、AI技術の1つでもある機械学習が登場してきたことによる。これまでは、人間が「こう指す」と教え込むようにプログラムを組んできたが、プロ棋士の棋譜を大量に読み込ませてコンピュータ自身が学習することにより、かなり人間が指す手に近づいてきた。その強さがプロ棋士レベルに近づいたことで将棋電王戦が開催されることになり、プロ棋士とコンピュータ将棋との対局が実現。ところが、当初のプロ棋士側の思惑とは裏腹にコンピュータ将棋の進化が加速。「プロ棋士と戦えるまたとないチャンス」と、さまざまなプログラマーが切磋琢磨したことも、飛躍的に強くなった要因だろう。

「人間がAIを育てる」から「AIは自ら学ぶ」ように

2012年に始まった将棋電王戦はネット中継され、それまで将棋を知らない人まで視聴するほど話題となり、新聞やテレビ局が多数取材に入った。対局場所を両国国技館や小田原城など、ふだん将棋を指さない場所に設定したり、コンピュータの指し手をロボットで行うなど、これまでの将棋のイメージとはかなり違う演出も相まって、将棋ファンのみならず、多くの人たちがプロ棋士とコンピュータ将棋との真剣勝負に一喜一憂した。

その後、深層学習(ディープラーニング)も取り入れたコンピュータ将棋は「教師」となるプロ棋士の棋譜では足りず、コンピュータ同士の自己対戦により棋譜を生成し、それを読み込んで学習。数百万、数千万レベルで生成された棋譜は、もはや人間が思考する域を超えていた。電王戦が始まった当初は、コンピュータの指す手に「違和感」を感じることがたびたびあると言われた。「人間だと指さないですね」とプロ棋士も解説で何度も口にしていて、それは「悪手」だと評されていた。しかし、いつのまにかその違和感は、人間の想像の域を超えた「最善手」へと変わっていったのだ。

人間の知識によって進化していったAIは、自ら学び始め、さらなる強さを得た。その実力は将棋よりも囲碁のほうが劇的に進化しており、将棋よりもさらに10年はかかると言われていた「プロ棋士打倒」を簡単に実現してしまったのだ。

さらにAIがすごいのは、ルールを教えなくても自分で判断して、ルール通りの指し手を指せるようになることにある。これまでは、ルールを教え込むだけでも大変だったのが、その必要がなくなる。どうしてそうなるのかを問うても、プログラマーにも「わからない」と言わせるほど、中身は「魔法の箱」と化しているのだ。

そのうえ、人間のように疲れを知らないから、淡々と作業をこなしていく。人間では不可能な対局数をどんどんこなし、先を読む力を得て、それを基に指し手を導き出し、さらに強くなっていくのである。事前の学習にはそれなりの時間はかかるが、そこから得られた「解」は、人間以上に最適化されたものになっており、どうしてその指し手になるのかは、プログラマーでもわからくなる。

人間がAIに学び、強くなる未来

評価値が映し出されるパソコンの画面

こうして、コンピュータ将棋はプロ棋士を超える域に達してしまったが、では「将棋がつまらなくなったのか」といえばそうではない。最近、藤井六段の活躍により将棋界のみならず社会全体が大いに湧いているのがその証拠だ。人間どうしの戦いはさまざまなドラマがあり、見ているものに感動を与えてくれる。また、電王戦で利用された対局者の「評価値」(どちらが有利かをコンピュータが数値化したもの)表示は、盤面を見ただけでは分かりづらい「どちらが優勢なのか」を視覚化したことで、将棋に長けていない人でも観戦を楽しめるようになり、ファン層の裾野を広げる効果をもたらした。これは、AIが人間のサポートをしている場面とも言えよう。さらに、将棋界には一種の「革命」が起きている。とうに廃れたと言われた指し手が最近復活しているのだ。これも、AIによる解析のおかげである。

将棋の歴史は非常に長い。その間、人間も絶えず研究をし続けてきた。しかし、膨大な指し手や棋譜の中には、やはり見逃しているところがあるものだ。AIによる解析で最善手が導かれたことで、それを人間が自分のものとして指せるようになっている。電王戦を戦ったプロ棋士たちは、対局前にソフトが貸し出され、いろいろと研究することができたが「それによって自分自身が強くなった」と感じている棋士がほとんどだった。佐藤康光日本将棋連盟会長は、電王戦終結の記者会見でこう述べている。

記者会見で語る日本将棋連盟の佐藤会長

「コンピュータ将棋はまだまだ進化し続ける余地があるようです。これは裏を返せば、これまでプロ棋士は一生懸命、より深い部分を感じながら歴史を刻んできましたが、一方、コンピュータによって『将棋はまだまだ新しい考え方があり、より深いものだ』ということを教えてくれたのだと思います。将棋というゲームが、世界に誇れる奥の深いものだと認識しながら、より高いレベルで登っていくことが必要でしょう。実際にいま、特に若手を中心にソフトを使って研究することが主流の時代になっています。電王戦で対局した棋譜には未だ謎めいたものも残っており、これらを解明していくことで、プロ棋士の理解が深まり、将棋の深さが再認識されることになると思います」

つまり、プロ棋士も実際にAIから学び、実践で活かしていく時代になってきたわけだ。昨日の敵は今日の友。これからのプロ棋士は、コンピュータも使いこなせないと強くはなれないのかもしれない。

AIがビジネスの活力源になる

ビジネスの世界においても、これと似たようなことが起きている。AIが人間に取って代わって作業する、というケースが増えてきているからだ。たとえばRPA(Robotic Process Automation)もその1つで、いまはまだ単純な作業を肩代わりする程度だが、将来はより複雑な業務もこなせるようになるだろう。「AIが人間の仕事を奪う」などという衝撃的な言葉も聞かれるが、チェスにしても将棋にしても囲碁にしても、まったく廃れてはいない。AIはなにも敵ではなく、人間をサポートする1つの道具に過ぎないのだ。

コンピュータは、単純な作業でも何も文句を言わず、疲れも知らず、ひたすらやり続けてくれる。これまで人間が苦労してきた単純作業はコンピュータの得意なところであり、AIに任せられれば、そのぶん、自分は他の作業、たとえば新規企画をゆっくりと練ることができたりする。仕事をAIに任せる→自分の時間が空く→これまでできなかったことをやる。このような循環が想像できれば、AIは仕事や生活を豊かにしてくれるはずだ。

かつて乗り物が馬からクルマへ変わったとき、仕事がごっそりなくなったかといえば、そうではない。クルマをつくる仕事、整備する仕事、ガソリンを売る仕事など、新たな産業が生まれた。この先10年、AIがより進化することで、さまざまな面でますます人間をサポートしてくれるはずだ。どのように活用していくのか、その時人間はどう対応していくのか、AIによって自分にとって足りなかったことを取り戻したり、新たなチャレンジをしたりするチャンスが生まれることになるかもしれない。

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名作映画に見る人間とAIのいい関係?!

©2016 Twentieth Century Fox

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舞台は、アメリカ南部のNASAラングレー研究所。人種差別が根強く残る1960年代、同研究所には仕事場を分離されながらも、天才的な数学能力を認められ、宇宙計画成功の一助となった黒人女性たちがいた。そんな彼女たちの活躍について実話を基に描いた作品が、9月29日(金)から日本でも公開される映画『ドリーム』だ。科学分野に関わる人はもちろん、すべての人に勇気を与える物語である。

物語の始まりは1961年。幼い頃から天才的な数学の学力を認められていたキャサリンは、エンジニア志望のメアリー、黒人女性たちで構成される「西計算グループ」リーダー格のドロシーらと共に、NASAラングレー研究所で計算手として働いていた。その能力を買われ、黒人女性として初めて宇宙特別研究本部に配属されたキャサリンは、人種や性別の分離政策に苦しみながらも、実力で次第に存在感を増していく――。

映画「ドリーム」とIBMの関わり

映画『ドリーム』には、1960年代初頭のIBMのコンピューターが登場する。それが、ロケットの軌道のような科学技術計算で用いられたメインフレーム・コンピューター「IBM 7090 DPS(Data Processing System)(作中通称IBM)」だ。現在のコンピューターと大きく異なる形状や操作方法を見て、驚きを覚える方も多いであろう。

このIBM 7090 DPSのNASAへの導入に伴い、人力による計算を担当していたウエスト・コンピューティング(西計算グループ)のリーダー格であるドロシー・ヴォーンは、新たな時代の到来を確信して、IBM 7090 DPSの操作方法とプログラミング言語「FORTRAN」を学び始める。

当時は、コンピューター利用の黎明期であり、当然ながらインターネットもホームページも存在していない。技術情報の入手方法は書籍やマニュアルに限られており、最先端のテクノロジーを理解し、使いこなすためには類稀なる努力が必要であったのは想像に難くないだろう。

新しいテクノロジーとの向き合いかた、有名作品ではどう描かれているか?

時代が異なるものの、映画『ドリーム』は、現代を生きる私たちにとっての教訓がちりばめられている。特に、新しいテクノロジーとの向き合い方という観点では、私たちに新鮮な気づきを与えるだろう。映画『ドリーム』の時代に計算手たちは、新たに導入された「コンピューター」に戸惑いながらも、使いこなす術を模索した。それはAIを使いこなすために模索する現代の私たちに非常に似た状況にある。

映画を切り口に考えてみると、AIという存在が相棒のように身体的、もしくは情緒的に人間をサポートする存在として描かれている作品も多い。一方で「2001年宇宙の旅」や「ターミネーター」や「マトリックス」などの著名なSF作品のように、AIは「人間の脅威」として描かれることもある。AIの実用化が進み、人間とAIとの協業に現実味が帯びてきたことが映画におけるAIの描かれ方も多様性を持ち始めてきたとも言えるだろう。そこで、人間とAIの良好な関係を描いた作品の一部を紹介しよう。

①『ベイマックス』

2014年に公開された、ご存知、ウォルト・ディズニー社によるアニメーション作品。未来の架空都市を舞台に、少年とロボットの活躍を描く。天才的な科学の才能を持つ主人公の少年は、飛び級で高校を卒業したことで目標を失い、自堕落な生活を送っていた。そんなある日、兄が開発していたケアロボット「ベイマックス」に出合ったことで、科学への情熱を取り戻した主人公だったが、唯一の肉親であった兄を不審な事故で亡くしてしまう。ショックのあまり心を閉ざしてしまった少年の前に、兄が与えた「傷ついた人の心と体を守る」という使命に従うベイマックスが姿を現す――。本作で登場するロボット「ベイマックス」は、主人公の友人であるとともに、心を支える重要なパートナーとして描かれ、その愛らしい動きや外見も話題となった。

②『アイアンマン』

2008年にシリーズ1作目が公開され、その後、さまざまな作品でも登場するマーベル・コミック原作の「アイアンマン」。エンタメ色が強い本作にも、主人公のパートナーとしてAIが登場する。「ジャービス(JARVIS)」と名付けられたそのAIは、アイアンマンこと主人公のトニー・スタークの相棒として、研究、仕事、そして戦闘に至るまで、あらゆる場面で情報提供や瞬時の分析などで主人公をサポートする。シリーズによっては敵に乗っ取られてしまうなどのシーンもあるが、それもご愛嬌。基本的にはスーパーヒーロー「アイアンマン」に、なくてはならない存在として描かれている。

③『her/世界でひとつの彼女』

2013年に公開された同作では、近未来のロサンゼルスを舞台に、中年男性の主人公と人工知能との恋愛模様を描いた。妻と別居し、悲嘆に暮れる日々を過ごしていた主人公は、目にした広告に興味を持ち、人工知能型OSを購入。パソコンから聞こえてくる魅力的な女性の声をしたAIは、主人公の日常生活や仕事のサポートだけでなく、精神面でも支えとして欠かせない存在となっていく――。結末では予想外の展開が待ち受けているが、注目したい点は主人公の精神面の変化かもしれない。彼はAIとの恋愛によって人間的に成長し、傷ついていた過去の自分とも正面から向き合えるようになっていく。まさに人間の可能性を広げる存在として、AIが重要な役割を担っている。

人間とAIが共存する社会へ

©2016 Twentieth Century Fox

©2016 Twentieth Century Fox

映画によってAIの描かれ方は多種多様だ。紹介した作品は一部に過ぎないものの、今後、人間とAIが歩むべき方向性を示唆している。

人間とAIが共存する社会において、重要なことは進化するテクノロジーを恐れ、拒絶するのではなく、仕組みを理解して使いこなすことなのではないだろうか。

映画「ドリーム」とIBMについて詳しくはこちら

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バイオイメージングにAIがもたらす変化とは

この記事はIBM THINK Watsonに掲載された記事を転載したものです。
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取材・文:高柳 圭

ビジネスへのAI導入は、昨年に引き続き多くの企業にとって関心事だ。しかし、ビジネスの枠組みを超えて「社会的に意義ある事業」に活用する事例が現在注目を集めている(前回記事参照)。
今回は、AIを使ってライフサイエンス領域にアプローチする、ある企業の取り組みにフォーカスする。これまで極めて高度な知識と経験を兼ねそなえた者しか踏みこめなかった医療・研究分野が抱える課題に、AIはどのように突破口を開くのか見てみよう。

エルピクセル株式会社

代表取締役:島原佑基
設立:2014年
業務内容:医療・製薬・農業などのライフサイエンス領域における画像解析技術の開発、ソフトウェアサービス、共同研究事業を展開する。
同社ホームページ

医療現場を革新するAIとバイオイメージングの融合

2014年に設立されたエルピクセル株式会社は、医療、製薬、農業といったライフサイエンス研究において、AIを活用した画像解析ソフトウェア・システムの研究開発に取り組んでいるベンチャー企業だ。
ルーツは東京大学の研究室のメンバー3名により立ち上げられた「大学発ベンチャー」で、設立経緯について代表取締役の島原佑基氏は次のように話す。

「大学では人工光合成と、細胞小器官の画像解析とシミュレーションをテーマに研究を重ねてきました。元となった研究室は2000年に発足してから、生物学における画像解析技術(以下、バイオイメージング)の研究をすすめ、基礎研究のための細胞や植物の研究、さらに放射線画像診断といった医療関連など、100件以上の共同研究を行っていました。
かつて、生物学の研究に情報科学といったいわゆる“計算”を用いるケースはあまり多くありませんでしたが、人間だけでは処理しきれない膨大な情報を処理するシステムを取り込むことで、研究の質を向上させることができます」

この発言を裏付ける、興味深い話がある。医師の情報処理能力は以前と変わらないにもかかわらず、21世紀に入って医療機関におけるCTやMRIなどの検査機器が発達し、扱うデータ量が100倍以上もの勢いで増えているという。
読影医(症例画像を分析する放射線診断専門医)の平均年齢は年々上がっており、医師1人が処理する症例画像は1日で数万枚にのぼることもあるなど、人手不足はきわめて深刻な課題だ。こうした現場の負担を軽減し、研究や診断の精度を高めるために、エルピクセルの技術が注目されている。

同社の主な事業内容は、研究機関や企業の研究のアウトソーシング、バイオイメージング技術を用いた製品の開発と企画提案であったが、現在は自社製品の開発に力を入れている。製品化されている「IMACEL(イマセル)」は、ライフサイエンス研究において画像解析を容易に行えるシステムで、画像解析の知識やスキルがなくとも、視覚的かつ直感的な操作で複雑な解析ができる。クラウド上で最新のアルゴリズムが常にアップデートされ、画像の自動分類など、使うたびに精度が向上していく仕組みだ。

画像解析中の写真

オフィスで画像解析を行うエルピクセルのスタッフ

一方、医療画像診断を支援するのが研究開発中の「EIRL(エイル)」で、CTやMRI、顕微鏡、内視鏡画像などの医療ビッグデータを用い、脳、肺、乳腺、肝臓、大腸など、それぞれの部位に対し教師データをつくり、独自のAIアルゴリズムで放射線、病理、内視鏡画像診断をサポートする。
本来、個人情報であるため入手困難な症例画像については、20以上の医療機関と提携することで使用可能なデータを確保している。また、MRIの画像は、キャノン、日立、GE、フィリップスなど関連メーカーのデータを幅広く解析することで、システムのロバスト性(外的要因による変容を防止すること)を保つなど、万全な体制を取る。

脳の症例画像

AIを活用することで、腫瘍や病変を検出する画像診断支援システム「EIRL」の画面イメージ

 

世界でもっともMRIの導入率が高い日本には、特に「脳」の症例画像が豊富にあり、エルピクセルの画像解析技術も国内外の他社と比べ抜きん出ているという。EIRLの研究開発にあたって、一昨年の秋に7億円の外部資金調達が行われた。

昨年、米国シカゴで開催された「RSNA2017(第103回北米放射線学会)」に、エルピクセルは日本のベンチャー企業として初めて” Machine Learning Showcase”に出展を果たした。他社の多くは、X線やCTによる肺ガン、マンモグラフィー画像など情報収集が比較的容易なテーマ中心に出展している中で、10のテーマにわたるバラエティーに富んだ同社の画像解析・研究内容は高く評価された。

島原代表とスタッフ

社内でミーティングを行う島原代表とスタッフ

 

「体のさまざまな部位に対して精度の高い画像解析と診断支援を行える企業は、世界にもまだありません。また、エルピクセルには大学の元・研究者だけでなくや元医療機器企業勤務のエンジニア、ビジネスマンもいるため、教師データをつくるワークフローの作成、研究開発・製品開発から行政への申請までをワンストップで行えるのも強みです。情報の処理と解析にかかる時間は領域によって異なりますが、他社が5年かかるところを、弊社であれば1年半程で終えられるケースもあります。
現在は、細胞の加工において高度な技術を持った企業と協力し、教師データをはじめとする画像をつくる前段階から精度を上げ、技術を標準化することを目指しています。高度な画像診断技術が定着すれば、将来、今よりも高い精度、かつローコストで多くの人が診断を受けられるようになる可能性があります」(島原氏)

あくまで実用的な製品を提供しつづけることで、患者や医師に対し、AIを用いた医療診断の必要性とメリットを示していきたいと語る島原氏。エルピクセルの画像解析技術の展開はバイオイメージングや医療分野での負担の軽減や、新たな知見の発見だけでなく、AIが人間の医療・研究活動をサポートし、命を支える社会の形成にも寄与するはずだ。

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近赤外光線を照射してがんを死滅させる「がん光免疫療法」の臨床試験のフェーズ1が、日本でも国立がん研究センター東病院(千葉県柏市)で3月から始まった。この治療法を開発したのは米国立保健研究所(NIH)の一部である米国立がん研究所(NCI)の主任研究員・小林久隆医師。2016年11月に本サイトで下記の記事を紹介したところ、全国から大反響を呼び、日本での1日も早い治療開始を望む声が高まっている。

近赤外線でがん細胞が1日で消滅、転移したがんも治す ――米国立がん研究所(NCI)の日本人研究者が開発した驚きの治療とは

先行する米国ではすでにフェーズ2が終わっており、今年中には米・日・その他地域でフェーズ3に進む予定だ。米食品医薬品局(FDA)は承認審査を迅速に進める方針を発表しており、2年以内に実用化される見通しも出てきた。
現在の治験対象は、日米とも再発頭頸部がん(喉、口、耳、鼻、顎など)だが、いずれは肺がん、大腸がん、乳がん、すい臓がん、前立腺がんなどにも広げたいという。
小林氏は今、光免疫療法をさらに発展させ、1カ所のがんを1回治療するだけで全身の転移がんも治療し、ワクチン効果によって再発もさせない、という画期的な研究開発に取り組んでいる。一時帰国した小林医師に、がん光免疫療法の現状と将来の展望を伺った。

米国での治験は再発頭頸部がんで奏効率93%、完全奏効功率47%の好成績

――いよいよ日本でもがん光免疫療法(近赤外光線免疫治療法:NIR-PIT)(注1)の治験が始まりました。一歩先を行く米国ではどのような成果が得られているのでしょうか。

小林 米国のフェーズ2は、再発頭頸部がんを対象に複数の病院で計30例の治験が行われました。現在公表されているのはトマス・ジェファーソン大学の7例だけですが、フェーズ1の8例が欧州の学会で公表されており、計15例のデータを見ることができます。(Gleysteenら、2017年アメリカ頭頸部学会より)
15例のうち14例はがんが30%以上縮小し(奏効率93%)、うち7例は完全奏効しました(完全奏効率47%)。近赤外光線を複数回当てましたが、1回で奏効を示す例もあります。他の治療法で効果がなかった患者さんのデータとしては良い成績だったと思います。これを評価したFDAからは、「米国の早期承認制度であるファストトラックに指定する」とのアナウンスがありました。

これを受けて、今年中には米国・日本・その他地域でフェーズ3に進むものと思います。フェーズ3でも先の15例と同じような成果が出れば、優位性があると認められて早めにフェーズ3を終了し、FDAの承認が出る可能性があります。

(注1)がん光免疫療法:がん細胞に結合する抗体に、近赤外光線の光で化学反応を起こす物質(IR700)を付け、注射で体内に入れる。抗体は血流に乗ってがん細胞に付着するので、そこにランプや内視鏡で近赤外光線を当てると、物質が熱を発してがんの細胞膜を破壊する。正常細胞に害を与えず、がん細胞だけを死滅させる選択性が極めて高い。

近赤外線を使った新しいがん治療法のイメージ

図1:近赤外線を使った新しいがん治療法のイメージ

――最初の治験の対象として頭頸部がんを選んだ理由は何でしょうか。

小林 頭頸部がんは、口の中、舌、歯茎、頰、咽頭部、鼻など食道より上に発生するがんです。内視鏡などを使わなくても身体の外から光を当てればよいというのが主な理由です。かつて「光動態治療」という、外部から光をがんに当てる治療法がありました。がんの選択性が低かったために成功しませんでしたが、その治療経験のあるお医者さんが多くおられる点も考慮しました。

小林久隆医師

頭頚部がんの次は肺がん、大腸がん、乳がん、すい臓がん、前立腺がんなども検討

――先生は「理論的には全身のがんの8~9割はこの治療法でカバーできるはず」と述べておられます。この先、どのようながんを対象にされるのか、今後の展開についてお聞かせください。

小林 現在治験中の抗体を使ってがんの種類を拡大する方向と、別の新たな抗体を使う方向の2本立てで行きたいと考えています。前者のほうで臨床応用を狙っているのは頭頸部がんの他に肺がん、大腸がん、乳がん、すい臓がんなどで、それぞれ治験に向けた検討を始めています。

しかし、従来の規則に従えば、がんを臓器別に1つずつ治験することになり、とても時間がかかります。もともと、がんを臓器別に分けるのは外科でどこを切るかを示すのが目的であって、がんの性質を全く考慮していない分類です。
光免疫療法は現在、がん細胞の膜上にあるEGFR(上皮成長因子受容体)に結び付く抗体を使っていますが、EGFRは頭頸部がん、肺がん、乳がん等に存在していることが分かっています。治験を主宰するのは、NIHからライセンス供与されたアスピリアン・セラピューティクス社という米国のベンチャー企業ですが、おそらく臓器別に各個撃破しなくてもよい道を模索すると思います。FDAも「がんは発生する臓器別ではなく性質で分類するほうがよい」というように変わってきています。

もう1つの別の抗体を使う方向は、NIHでは患者さんが多い前立腺がんを当面の対象に考えています。前立腺がんにはPSMA(前立腺特異的膜抗原)という抗原があるので、これに結び付く抗体を選んで使うことになります。

小林久隆医師

1カ所のがんを1回治療するだけで全身の転移がんも治療し、再発もさせない

――光免疫療法には、がん細胞を直接攻撃する方法の他に、がん細胞を守る制御性T細胞をたたく方法(注2)があり、先生は「これを同時に併用する方法が効果的」と述べておられます。具体的に説明していただけますか。

小林 2つの方法は別個の治療法としても成り立ちますが、最終的には表裏一体で同時に行なうことを目標にしています。がん細胞を直接攻撃する方法は、奏効率は高いのですが、完全奏効率は3~4割程度にとどまります。一方、制御性T細胞をたたく方法は、転移がんに対してもかなりの効果を発揮しますが、なかなか完治させることができませんでした。

私の研究室では、マウス実験でこの2つを同時併用する方法を確立しました。1カ所のがんを1回治療するだけで全身の転移がんも治療し、しかも治療したがん細胞に対するワクチン効果で2度と再発させない方法に仕上げるつもりです。

図2:がん光免疫療法(NIR-PIT)が、がんを治療して再発や転移をなくすステップ

上の図2で説明しましょう。まずがん細胞に直接光を当てる方法でがん細胞を壊すと、いろいろながんの抗原が一斉に露出します。すぐ近くにいる樹状細胞(免疫細胞の1種)がこの抗原を食べて成熟し、抗原情報をリンパ球(T細胞)に伝えます。このリンパ球は活性化して分裂し、その抗原を持つ、他の場所にあるがん(転移がん)を攻撃しに行きます。
この一連の仕組みの中で、制御性T細胞は免疫細胞ががんを攻撃するのを邪魔するだけでなく、樹状細胞の活性化も妨げています。ですから制御性T細胞をたたけば、一連の仕組みがスムーズに機能するようになります。2つの方法を同時併用するのはそのためです。

(注2):制御性T細胞をたたく方法:がん細胞の近くにいて、がん細胞への攻撃を邪魔している制御性T細胞をたたく。近赤外線で発熱する物質(IR700)を付けた抗体を体内に入れて制御性T細胞に結合させ、近赤外光線を当てて死滅させる。すると、がん細胞の近くにいる免疫細胞は「OFF」から「ON」に切り替わり、がん細胞を攻撃。さらに血流に乗って全身を巡り、転移がんを攻撃する。

制御性T細胞をたたく方法

図3:制御性T細胞をたたく方法

メモリーT細胞が何種類ものがん抗原を記憶し、ワクチン効果を生む

――がんを1回治療する方法で、なぜワクチン効果が体内に生じるのでしょうか。

小林 先ほどの図2でリンパ球(T細胞)が活性化して分裂する際、がん細胞を攻撃するリンパ球とは別に、メモリーT細胞という抗原を記憶するリンパ球が作られます。これが体内で長く生き続け、がんが再発しようとすると、それを見つけて攻撃しに行くのです。つまり感染症におけるワクチン接種と同じ効果を示すのです。
マウスの動物実験では、すでに成果が得られています。光免疫療法で1カ所のがんを1回治療すると、転移がんも消失し、そのがんはどの部位も再発しないことが確かめられました。この治療でいったん治癒したマウスには、治療したがん細胞に対するワクチン効果が生じているので、500万個もの治療したものと同じがん細胞を打ち込んでもがんは再発しないのです。これはふつうのマウスであれば3週間で確実に死ぬ数のがん細胞です。
むろんマウスと人間では免疫の仕組みが少し違うので、人間にはどのように当てはめて行けば良いのか、これからNIHでの臨床治験で詳しく調整法を確かめるつもりです。

小林久隆医師

――がんの再発は多くの患者さんが一番不安に思う点です。それを予防できるのは驚くべき成果だと思います。

小林 NIHはすでに人の臨床試験に入る準備を始めています。目の前にあるがんを治療するだけでなく、転移がんや再発も全てなくすというのが、私が当初から目指してきた最終ゴールでした。
従来も「がんワクチン」はありましたが、がんの1つのたんぱく質(抗原)を体内に入れてメモリーT細胞を作るやり方です。しかし、がん細胞はそのたんぱく質を巧みにすぐ隠してしまうので、効果が継続して出なかったのです。

それに対して今開発中の方法は、がん細胞の破壊で一斉に露出した何種類ものたんぱく質に対応するメモリーT細胞を作るので、確実に再発を予防できるのです。免疫の効きすぎが原因になる自己免疫疾患のような副作用が起きる心配もほぼありません。

まず非侵襲の治療法から始めることが理にかなっている

――光免疫療法と既存の外科、放射線、化学療法との組み合わせやすみ分けは、どのように考えておられますか。

小林 それは光免疫療法がどの程度の効果を発揮できるかで決まると思いますが、原則論で言えば、非侵襲で患者さんの身体的負担が少なく、コスト面でも医療費抑制に効果的な光免疫療法から始めることが理にかなっているのではないかと思います。
ただ、外科療法は開いた部位に光を届けるという点で、光免疫療法とは相性がいいと思います。特にがん細胞と正常細胞が混ざっている脳腫瘍や体の奥にあるすい臓がんの場合などはそうです。縮小手術で患者さんの負担を減らしつつ、この治療法と組み合わせるのが良いかと思います。

一方、患者さんの免疫に影響を与えることが多い放射線療法や化学療法は、私はできれば光免疫療法を先に行なうのが適切ではないかと思います。ただ、光免疫療法も全てのがんを直しきれるわけではないので、やはり個々のケースに応じて考えていくことになるかと思います。

――前回のインタビューでは、脳腫瘍をドイツのフライブルク大学やケルン大学と、すい臓がんをオランダのフローニンゲン大学と共同研究中とのことでしたが、その後の進展はありましたか。

小林 研究は順調に進んでおり、特にオランダは意欲的です。しかし、ヨーロッパでは治験や承認プロセスに各国とEUの2つの基準があり、とても複雑で米国や日本のように治験は進んでいません。

小林久隆医師

楽天・三木谷会長が初期段階からアスピリアン社に多額出資して支援

――ところで、楽天の三木谷浩史会長はアスピリアン社に出資し、取締役会長にも就任して指揮しておられます。支援にはどのような経緯があったのでしょうか。

小林 三木谷さんには2013年に初めてお会いしました。当時三木谷さんのお父上ががんを患っておられ、三木谷さんは何とか治したいと良い治療法を探すために世界中で最新のがん治療を調べておられました。

私の仲の良い神戸の親戚が三木谷さんと以前からお付き合いがあり、私ががんの新しい治療をNIHで研究していることをお話ししたところ、ぜひ1度会いたいと言うことになりました。そこで、学会で日本に一時帰国した折に夕食をご一緒しました。
まだ開発しパテントを取って1年ほどの頃です。当時、所属しているNIHでは臨床応用への予算がなかなかつかず、治験の準備を進めることが難しかった時期でした。三木谷さんはがん治療に対し医師の私もびっくりするほど深い知識を持っておられて、真剣に聞いてくださいました。
日本にいた1週間ほどの間に、三木谷さんと私は、医師や医療関係の企業の方を交え会合を持ちました。そして、三木谷さんは個人的に最初の治験までの数億円にのぼる支援を、ライセンスしているアスピリアン社にしてくださることになったのです。

お父上は無念にもその年の暮れに亡くなられ、この治療法は間に合いませんでした。しかし、三木谷さんは何としてもこの治療法をがんで苦しんでいる人々に早急に届けたいと、その後も企業として治験の結果が出るのに応じて支援を増やしてくださり、さらにはアスピリアン社の代表取締役会長として直接経営にも加わっていただけるようになりました。
私とアスピリアン社は相談し、体内に入れる抗体の名前を、お父上(三木谷良一氏1929年生まれ)にちなんで「RM1929」と名付けようと提案しました。

小林久隆医師

殺到する世界からの問い合わせ、1日も早く患者さんに届けたい

――お話を聞けば聞くほど、日本での早期実用化が望まれます。国立がん研究センター東病院などで始まる治験への期待を、お聞かせください。

小林 日本でも米国と同様に治験がうまく進み、この新しい治療が多くの患者さんに届けられ、お役に立つことを心から願っています。研究を始めた当初から、日本での治療は私の夢でした。
皆さんの関心の高さをひしひしと感じています。私が日本のセミナーで講演すると、帰れなくなるぐらい質問が殺到します。勤務先であるNIHにはこれまでに世界から1100通を超えるメールが届きましたが、うち6割は日本からです。研究の合間を縫って800通ほどにご返事を出しましたが、300通はまだできていません。

小林久隆医師

治験については、主宰するのはNIHからライセンス供与されたアスピリアン社が行なっているため、私も細かな情報までは把握できず、詳細についてご対応ができない面もあります。同社には問い合わせ窓口を設けるよう要請したところです。
引き続き、「がんは治る病気」が常識になる日に向けて、光免疫療法を1日も早くお届けできるよう頑張りたいと思います。

TEXT:木代泰之

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こばやし・ひさたか 小林久隆

米国立がん研究所(NCI)主任研究員
1961年、兵庫県西宮市生まれ。1987年京都大学医学部卒。1995年同大学院修了し医学博士修得。1995年よりNIH臨床センターフェロー。2001年よりNCI/NIHシニアフェロー。2004年よりNCI分子イメージングプログラムで主任研究員として、基礎研究開発部門を主導。専門は、がんの新しい画像診断方法とがん細胞の超特異的治療(近赤外光線免疫療法)の開発。近赤外光線免疫療法の開発は、2012年にオバマ大統領の一般教書演説で紹介され、2014年にNIH長官賞を受賞した。近赤外光線免疫療法は、アスピリアン・セラピューティクスにライセンスされ、2015年より頭頸部がん患者を対象にした最初の臨床治験が開始された。これらの開発で4回のNIH Tech Transfer Awardを受賞しており、NCIでは今世紀に入って初めての日本人テニュア主任研究員となった。日本では第38回日本核医学賞等を受賞する研究者であったと同時に、11年の臨床経験がある放射線診断、核医学、消化器内視鏡の専門医でもある。これらの日米での功績によって2012年に、日本政府の国家戦略室より「世界で活躍し『日本』を発信する日本人」の表彰を受けている。現在、アメリカ化学会の雑誌など欧米の7誌で編集委員、多くの国際学会でプログラム委員をしている。